歴史・文化探求ブログ

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名古屋メシはほんとにナゴヤ?(津市食文化編)

 

 

――学校・休み時間

 

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こないだ名古屋に行ってきたんだ

 

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そうなんだ。何したの?

 

 

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名古屋城へ行ったりしたわ。
でもなんといっても名古屋メシ!
名古屋メシを堪能したわ。

 

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それはいいね!
ところで名古屋メシが実は名古屋発祥じゃないって知ってる?

 

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そうなの⁈じゃあ、どこ発祥なの?

 

 

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全てじゃないけど、津市なんだ!(諸説あり)

 

 

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https://www.sozai-library.com/sozai/2326より

 

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へー。滋賀県の?

 

 

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それは大津…

 

 

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https://kotobank.jp/word/大津%28市%29-1512535より

 

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あ!三重県ね!

 

 

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そうそう!!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainどんな食べ物が津市発祥なの?

 


f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainいくつかあるんだ。
1つ目は"天むす"だね。

 

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https://recipe.rakuten.co.jp/recipe/1340013756/より

 

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海老天の入ったおむすびのことね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainそうそう。これは津市にある「千寿」という店の賄い飯が元で80年代に名古屋へ広まっただ。そしてテレビで"名古屋の天むす’'として取り上げられて全国へと広まったんだ。


f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain今では東京駅でも売られてる''天むす"は津発祥だったのね。

 


f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain他にもあるの?

 


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainうん。"ひつまぶし"も津発祥だと言われてる。

 

 

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https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130501/13133695/より

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plainそれも津なの⁈

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain名古屋発祥説と津発祥説があるんだけど、今回は津発祥ということで話を進めるね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainうん!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain津市のある鰻屋が質が悪くて普通の蒲焼としては出せないものをお茶漬け風にして食べたものが始まりらしいね。これも賄い飯が起源だよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain賄いすごい!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainちなみに津市はうなぎを食べる文化が根付いた町なんだ。合併で市が広くなるまではうなぎの1人あたりの消費量は全国1位だったんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plainでも、うなぎって高いイメージがあるからみんなが慣れ親しんでるわけじゃなさそう…

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plainところが津市では近年うなぎの不漁や資源保護の観点から価格が高騰するまで、かなり安く食べることができたんだ。1000円台でうなぎを上のうなぎを食べれたんだよ。


f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainそうなんだ。他にもあるの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainそうだなぁ。"味噌カツ"もかな。

 

 

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https://tabelog.com/tokyo/A1305/A130501/13133695/より

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain味噌カツも?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain60年代に津市のレストランでカツに味噌をかけて提供したものが始まりだと言われているんだ。味噌が名古屋の八丁味噌ベースのものと違うから直接関係ないとの説もあるけどね。


f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainそうなのね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plainそれにしても名古屋メシで有名な食べ物に津発祥のものがこんなにあるとは思わなかった!他にも津発祥の食べ物ってあるの?


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainいちご大福も津発祥だね。

 

 

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https://daidokolog.pal-system.co.jp/recipe/3153より

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plainいちご大福もなんだ!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plainうん!今日話した食べ物は津市の中心部にある店ばかりだから廻ることもできるね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain今度は津で名古屋メシを食べようかな。

 

名古屋メシはほんとにナゴヤ? 終

 

 

歴ブロ 咲く、紅花翁草

ある日の昼間 敬史の家

 

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〈歴山敬史〉

なあ、結化。岐阜に麒麟が来てたの知ってるよな?

 

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〈文野結化〉

んーと。明智光秀の話だったよね?

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plainそう。 
明智光秀のいとこの旦那が織田信長なんだ
その織田信長が住んでいた城が岐阜城なのは小学校で習ったよな

 

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うん。  
自粛中の散歩で金華山登山してる友達いたよ

 

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その頂上から長良川見えるだろ?
夜になると、鵜飼をやってるのがとっても美しいよな

 

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そうだっけ?
あんまり知らないんだけど、そうかも 

 

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知らないのか…
鵜飼を織田信長は岐阜に来る客人に見せていたんだ。 織田信長は文化人だったから鵜飼をはじめいろいろな文化を保護していたんだよ。
    その一つに能楽があるんだ。能楽って聞いたことあるか?


f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain知らない
何それ

 

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だろうな  
説明するからちゃんと聞けよ?

 

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いいけど、このケーキおいしそう
食べながら聞くから

 

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そのケーキ…俺のおやつ…

んで、能楽室町時代観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)親子がつくったミュージカル舞台みたいなものだね


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain信長、秀吉、家康など誰でも知ってる人の多くがたしなんでいたんだ 
装束(衣装)と面(仮面)をつけて昔の言葉で演技するんだ


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainよく「歌舞伎を地味にしたもの」と説明される
もともと神様に奉納するものだったから神聖なものだったんだ
今もそのなごりで敷居がたかいと思われているんだよ

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↑能の実演風景

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain近年は海外で「nhou」として高い評価を受けているみたいだよ
日本では現代文学とコラボしたりして広く知ってもらおうと活動しているらしい。例えば最近だと「ガラスの仮面」だね


f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain確かに昔の言葉って難しいし理解できないから敷居が高く感じる
それに言葉が分かんないから眠くなるかも


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainある先生は眠くなるのが悪いわけじゃないってさ。自分が感じた感覚が眠さならそれが正解だって。使う小物が必要最低限だから自分で想像しながらみるから意外と頭を使うんだ。


f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainちなみに日本ではどこで上演してるの?

 


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain東京、京都、名古屋が多いらしいけど
ここ岐阜でも長良川薪能(岐阜)や薪能くるす桜(郡上)があるんだ
どちらも無料で薪能だから年一回だけどな

 

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あのさ、お腹すいて話が入ってこないんだけど
このプリンもらうね、続きどうぞ


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainお、おう…(それ明日の10時のおやつ…)
能楽の話は結構展開が同じで簡単なんだ。

 

    ① 僧が出てきて、地元民と会話する
    ② 人が亡くなった場所でお経を唱える
    ③ お経を唱えてもらった人が亡霊となって出てくる
    ④ 亡霊がお礼と昔ばなしをする
    ⑤ 亡霊が消えていく


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainめでたしめでたし、簡単だろ?
すべてを理解できなくても「今この辺かな?」と考えるだけでも楽しめるはずだよ

 

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え!
簡単じゃん
でも、見に行くときのルールとかあるでしょ?


f:id:historycultureblog:20200410012245j:plainミュージカルを見るときと同じで
撮影、録音禁止。携帯の電源はおとす。私語禁止。くらいだよ

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainそうなんだ 
着物とかじゃなくてもいいの?

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain絶対に着物で見ろというルールはないよ
ただ、歌舞伎みたいに掛け声はないからね
静かに自分の世界で能楽を楽しめるように配慮すべきだよ


f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainへえ~、ちょっと物知りになれた気がする
ありがとう
さっきから友達から電話かかってきてるからもう行くね

 

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おい!まだ、続きあるぞ

 

 

数日後の放課後の教室


f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain敬史~
この前の能楽の続きあるんでしょ?

 

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覚えてたんだ
長良川薪能について言おうと思って

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain聞く!

 

 
f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainまず、薪能は屋外でかがり火をたいてやるんだ
長良川薪能長良川の河川敷で8月おわりに毎年開催されてる
岐阜城と鵜飼と月が素晴らしい空間にしてくれるんだ

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainそういえば何年か前に地元の女の子が人間国宝と共演して取り上げられてたよね

 


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainそうだったな 

 


f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain私、能楽堂について画像みたんだけど
屋内に今はあるのになんで屋根ついてるか知ってる?


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain知ってるけど、聞くよ

 

 

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なんか腹立つ…昔はすべての上演が屋外で屋根があったんだって

その名残で屋内の能舞台なのに屋根つきっぱって書いてあった

 

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↑能の舞台。確かに屋根がついている。


f:id:historycultureblog:20200410012148j:plain昔の文化とか嫌いなのかと思ったら意外と好きなんだな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain最近気づいたんだけど、今の文化があるのって昔の文化が積み重なってるからなんだって。だから食わず嫌いじゃないけど知らずに馬鹿にするのはだめだと思って
知ったら案外面白い発見とか出会いがあるとかな?って


f:id:historycultureblog:20200410012148j:plain大人だな

 

 

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でしょ?(笑) 

 


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainじゃあ、大人の結化に
今度、一緒に長良川薪能観に行こうか

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plainいいけど
でも、夏休みの宿題教えてね

 

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なんでそうなるんだよ(笑)
わかったよ

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainあっ
この後、岐阜で能楽教えてる人がいるみたいで見学にいくんだけどついてくる?

 

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↑能の練習風景(プライバシー保護のため、加工を施しております。)

 

f:id:historycultureblog:20200410012148j:plainおい!
いつの間に⁉️

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain言ったじゃない
知らずに嫌ってたって
面白そうだから調べたの


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain俺は行かないよ 
楽しんでおいで 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain他にも調べたんだけど、今の能楽の装束は室町時代末期から派手になってそれまでは結構質素な装束だったんだって

 

f:id:historycultureblog:20200410012148j:plainそれは知らなかったな。すっかり能楽の虜じゃないかすごいな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainそれと、装束には意味があるんだって
有名どころだと、鬼女は三角模様の「櫂箔」だよ
能楽装束 三角 鬼女」で調べると出てくるはず


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainいやぁ俺より物知りになってる
今日の見学の感想待ってるよ

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainえーほんとに行かないの?

 


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain分かったよ…行けばいいんだろ?その代わりこの前のケーキとプリンちゃんとかって返せよ?


f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain分かってるって
いこっ


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainおい、待てよ
結化…今言う事じゃないと思うけど…

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainん?なあに?

 


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainお、俺と付き合ってくれ…

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainいいよ
薪能観に行くの付き合うよ
(えっ…私いま告られた…よね…「はい」ってなんで言えないの…私のばか…)


f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain(そうゆう事じゃないんだけどなぁ)
ありがとう

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainほら、行くよ
見学遅れちゃう

咲く、紅花翁草編 終わり

 

参考文献

http://www.nohkyogen.jp/visitor/noh4/noh4.html

 

 

歴ブロ 裏文化史① 刀の試験、試刀術

※今回は若干グロテスクな表現がございますので、苦手な方はここで閲覧をおやめ下さい。

 

1.裏文化史とは

 

この裏文化史では、様々な理由(主に大人の事情)で歴史の教科書に載らないトピックを紹介していきます。殆どの場合、センシティブもしくはグロテスクな内容が含まれますので、閲覧の際は十分ご注意下さい。それでは、続きをお楽しみ下さい。

 

2.試刀術との出会い

 

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〈歴山敬史〉

・・・

 

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〈文野結化〉

ねえねえ、何見てるの?

 

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うわっ!びっくりした。勝手に部屋に入ってくんなよ・・・。それに、あんまり今調べている事は良いものじゃないぞ。

 

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え、なになに・・・ 

 

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/試し斬りより

 

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((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 

 

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な?だから言ったろ?お前にはまだ早いって。

 

 

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なんか敬史に言われると腹立つ!このくらいどうってことないわよ!良いから教えなさいよ!

 

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やめといたほうが良いのになあ・・・

 

 

3.室町時代の終焉と試し切り

 

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 本当に話すの?

 

 

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しつこいわね。血でも死体でも何でも話しなさい!

 

 

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・・・わかった。それじゃあ、まずは試刀術の始まりから話そうかな。そもそも、刀が多く生産され始めたのは、室町時代末期から安土桃山時代、俗に言う戦国時代なんだ。

 

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なんで?

 

 

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応仁の乱の頃から、たくさん使われた雇われ兵のことをなんと言ったっけ?

 

 

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 たしか足軽だっけ?でも、最初の頃は戦闘に従事していなかったんだよね。戦国期辺りに戦いも行うようになったんだっけ?

 

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そう。そのときに、足軽も武器を持って戦わなくてはいけない。でも、雇われているぐらいだから、足軽にはいい武器を買う余裕なんかないよね。でも、粗悪でない刀を作れる刀工の数は限られているし、供給される刀の本数も限られている。そうなると、世には”或るもの”が沢山で回ることになる。なにかわかるかい?

 

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粗悪な刀?

 

 

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正解。刀剣の需要の爆発的増加に応えるために、お貸し刀(農兵・足軽に貸される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになったんだ。 その後、戦国時代中期には、刀工が多く生まれたことにより、名刀の生産も増えたんだけど、粗悪品もまだ多く出回っていたんだ。

 

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 よくある話だよね。

 

 

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しかし、下剋上の世では、いつ寝首をかかれるかわかったもんじゃない。それなのに、粗悪な刀で身を守るなんて危なっかしい話無いよね?そこで生まれたのが試刀術というわけだ。次の項で詳しく紹介するよ。

 

4.安土桃山中期から江戸時代における試し切り 

 

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最初に試し切りを大成したのは、美濃国の出の武将谷衛好(もりよし)・衛友(もりとも)父子だとされているんだ。衛好が独自に手法を編み出して、衛友がそれを一つの流派として完成させたんだよ(谷流)。

 

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この谷流の恐ろしいところは、美術的価値だけでなく、実戦においての刀の格付けを行うために、鎧や兜と言った武具、ときには死体や死罪となった罪人で試し切りを行ったんだ(注1)。

 

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うわっ・・・えっぐ・・・ 

 

 

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でも、これには高度な知識と教養、そして何より練度の高い技術が必要だったんだよ。谷流の門下からは沢山の試し切りの名手を排出したんだ。例えば、暴れん坊将軍に出てきた山田朝右衛門は谷流の試刀術の名手山田浅右衛門(朝右衛門と名乗っている時期もあり)がモデルなんだよ。この人は徳川吉宗の時代に、初代公儀御様御用(こうぎおためしごよう)という刀剣の試し切り役に任じられたんだ。死刑執行人も兼任していたみたいだけどね。

 

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公職にもそんな物があったんだ・・・

 

 

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吉宗自身が武闘派だったこともあって、刀剣収集を行っていたからというのが主な要因だね。あとは、平和な世の中になって、実戦がなくなったために刀剣の切れ味がわからなくなってしまったというのも要因みたい。

 

 

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ちなみに衛友が秀忠の御伽衆だったこともあって、他にも沢山の谷流の門徒が幕府に仕官したと言われているよ。中川佐平太は幕府書院番(注2)に出仕したこともあんるんだけど、この人もたくさんの門下を出したらしいんだ。

 

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ただ、徳川家綱・綱吉の時代に血を忌み嫌う風潮が出来たために(注3)、山田家以外の試し切りは廃れていき、山田家も悪い噂が流されたり、忌み嫌われるようになってしまったんだけどね。
 

 

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 まあ、そうよね・・・

 

 

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このときに行われた政策によって(注4)牢人が減って、辻斬りなどが少なくなったから、悪いことではなかったんだけど、山田家の人からしたら根も葉もない噂をされて災難ではあっただろうね。

注釈

ルイス・フロイスの記録にも、ヨーロッパにおいては動物を使って試し斬りを行うが、日本人はそういうやり方を信用せず、必ず人体を用いて試し斬りを行っているという記述がある。

江戸幕府の将軍直属の親衛隊。慶長10年(1605年)に設立。水野忠清、青山忠俊、松平定綱、内藤清次が初代番頭に任じられた。

3服忌令のこと。服忌令は死者が出たときに、近親の度合いに応じて喪にこもる服忌や忌日の日数を定めたもの。徳川綱吉が制度化した。

末期養子の禁止の緩和のこと。それまで禁止されていた跡継ぎのいない大名が死に臨んで(末期)、急に相続人(養子)を願い出ることを17歳以上50歳未満の大名に認めたこと。これにより、後継ぎがいなくて改易される大名がなくなり、牢人も大幅に減った。

 

5.明治以降の試し切り

 

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その後山田家はどうなったの?

 

 

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一応江戸幕府が崩壊した後、8代山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮が「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担ったんだけど、明治3年(1870年)には弁官達によって、刑死者の試し斬りと臓器の取り扱いが禁止されちゃったんだ。まあ、廃刀令もあったし、時代背景にあっていなかったんだろうね。

 

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それじゃあ、それからは完全に人体の試し切りはなくなったの?

 

 

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じつは日中戦争中に軍刀や古刀を用いて捕虜に対する試し斬りが行われたという証言があるんだよね(注1)・・・

 

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・・・(この話は聞かなかったことにしよう)。

そ、それじゃあ今はどうやって刀の切れ味を確かめているの?

 

 

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藁、畳、竹、兜、豚肉等をつかっているみたいだよ。竹は、骨と、豚肉は筋肉と同じくらいの強度があるみたい。藁は実際は殆ど使われなくて、畳表が主流になってるみたい。

 

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へぇー。それじゃあ、ある意味平穏な世の中になったんだね。

 

 

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今の時代に生まれてよかったよ!

 

 

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なんか今日は疲れちゃった。そろそろ帰るね・・・。

 

 

 注釈

1日本軍中島今朝吾第16師団師団長の日記によれば「本日正午高山剣士来着す。捕虜七名あり。直に試斬を為さしむ。時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込斬りたり」と捕虜を使って試し斬りを行ったと記している。岡田酉次が著した日中戦争裏方記によれば、とある一戦の後、捕虜を得たと裏方に情報が伝わると、試し斬りのために刀剣を持った日本兵が我先に集まったという。(Wikipediaより引用)

 

6.この記事を書くにあたって

実を言うと、私自身、このブログを書く前は、試し切りについてあまり良くないイメージを持っていました(というか今でもあまりいいイメージは持ってません)。しかしよく調べてみると、時代のニーズにとても合致しているのではないだろうかというふうにも思うのです。試し切りの歴史は室町後期の刀剣の需要爆発・供給爆発に始まり、江戸時代の鑑定の需要爆発によって職が確立し、明治期の廃刀令に終わる、まさに刀剣とともに盛衰を歩んだものでした。こういう話をお嫌いになる方も多いとは思いますが、是非ご自分でも調べてみて下さい。面白いものが見つかるかもしれませんよ。

 

刀の試験、試刀術終

 参考文献

日本刀 - Wikipedia

試し斬り - Wikipedia

谷衛友 - Wikipedia

山田浅右衛門 - Wikipedia

ハガクレ★カフェhttps://ja.wikipedia.org/wiki/書院番

書院番 - Wikipedia

 山川日本史小辞典

歴ブロ 衰退しゆく、名張の地4

名張史(近代〜現代)

この記事の作者は名張出身です。一部名張の批判と思われるところもございますが作者の愛情によるものです。

 

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〈文野結化〉

いよいよ現代に近付いてきたなぁ

 

 

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〈歴山敬史〉

そうやなぁ
1930年に参宮急行電鉄が開通して、大阪と鉄道で結ばれた名張やけど、戦争が終わるまでは、ずっと田舎のままやったんや

 

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戦時中は、多くの人が名張疎開してきたんや

 

 

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そうやったんやー
戦後はどうなったん?

 

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1954年に、名賀郡名張町・滝川村・箕曲村・国津村が合併して、市制が施行されたんや
名張市」の誕生やな

 

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おめでとう〜!!

 

 

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その後、1959年に伊勢湾台風の被害を受けたり、色々あったんやけど、1963年に、桔梗が丘住宅地の造成が始まって……

 

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こっから、名張市の発展が始まったんや!!

 

 

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おぉー!!!
おめでとうやで!!!!!!

 

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それまで山の中の田舎やった名張市で、大阪都市圏のベットタウンとして都市化が進んでいったんや

 

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近鉄特急が停車して、大阪の中心部まで1時間以内で通えるっていうこともあって、急速に人が増え始めたんや

 

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名張すげえぇぇぇ!!!!!!

 

 

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人口増加はどんどん加速して、1981年、名張市の人口増加率が7.8%となって、日本一に輝いたんや!

 

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ニホンイチッッッ!!!!!!

 

 

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http://pop-obay.sakura.ne.jp/figures/figures24208.html より

 

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すごーい
名張めっちゃ都会やーん?

 

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でも、グラフから分かる通り、最盛期は8万5000ほどまで増えた人口は、2000年頃をピークに減少し始めたんや……

 

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えぇ、なんで!?
どうした名張……

 

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より大阪に近い奈良県香芝市ニュータウンの造成が進んだり、都心回帰傾向もあったりして、世帯数・人口が減少し続けたんや

 

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どんどん住人の高齢化も進んで、今となっては、年々、色んなお店が看板を下ろしたり、速達電車の本数が減らされたりしてるんや

 

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あらま。
かわいそうに……


 名張市の歴史・文化⑧
1954年に、「名張市」が誕生した。その後、近畿日本鉄道大阪線を利用することで、大阪の中心部まで1時間以内でアクセスが可能である名張市では、大阪のベッドタウンとして三重県で唯一の大阪都市圏となった。ニュータウンの造成が始まり、「桔梗が丘」「つつじが丘」「百合が丘」「すずらん台」など、花の名前のついた大規模住宅地があちこちにできた。
1981年には、人口増加率が日本一になった名張市であるが、21世紀を迎える頃、8万5000人をピークに減少し始めた。人口流出と高齢化が止まらない。衰退待ったなしである。近鉄は、ダイヤ改正の度に快速急行の本数を減らしている。
近鉄大阪線の急行電車は、名張市内とその付近において、16駅連続で停車し、各駅停車と化す。利用客の少ないこの区間で、電車の運行本数を減らすためである。名張市は、近鉄によって発展し、近鉄近鉄不動産)の力で守られてきたが、ついに、近鉄でさえ手に負えないほどに落ちぶれてしまったのだ。

 

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あとはあれやな

 

 

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なんや?

 

 

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さっきは大阪の影響が強いゆーたけど、実は名張市って、西日本の文化と東日本の文化が入り交じってる地域なんや

 

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何それ!
どっちつかずは良くないやろ!!

 

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西と東の良いとこ取りやと思ってあげて……

 


 名張市の歴史・文化⑨
名張市は、中京圏三重県にありながら、大阪・奈良との結び付きが強い。食文化は西が強く、カップ麺などは、四日市市や津市などでは東日本バージョンで販売されているのに対し、名張市では西日本バージョンが販売されている。しかし、銀行などの金融機関や、商業施設は中京系が強く、第三銀行百五銀行マックスバリュ中部などが覇権を握っている。
これが、いわゆる「三重県近畿地方か東海地方か」という議題を生んでいる。名張市など早々に除外しておけば良かったものを。三重県も馬鹿である。
特に面倒くさいのは、マスコミ系である。新聞は関西系であるが、テレビ放送は中京系である。かつてはどちらも関西系の情報を発信していたが、地デジ普及以後にこうなってしまった。これに名張市民は激怒し、関西系の放送が行えるケーブルテレビ局ができた。

 

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でもやっぱり、名張市っていい街やな

 

 

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どういうところが?

 

 

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人口減少・高齢化が進んでる今、名張市は誰もが安心して住みやすい福祉のまちづくりを目指して頑張ってるんや

 

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ベッドタウンから「福祉のまち」へ
やな!

 

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大阪からも名古屋からも近い
それと、田舎やけど、田舎過ぎやん

 

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住みやすそうな街やろ!

 

 

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名張市か。
いいね!!

 

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うん!!

 


 名張市の歴史・文化⑩
最後まで読んでいただきありがとうございます。
最後まで名張市をディスりまくりましたが、これは私の勝手な名張市のイメージであり、事実と異なる場合があります。市民の皆様、すみませんでした。さて、私の思う名張市の魅力は、「中途半端」なところです。住宅都市と農村集落の共存、東西文化の共生、自然と文化の調和、若者とお年寄りが共に生きるまち、それが名張だと思うのです。私は、そんな名張市が大好きであり、ここで育ったことを誇りに思っています。
ところで、名張と同じような、また名張以上に苦しい境遇に立っている地域は、全国にたくさんあると思います。そうなると、自分の故郷に「魅力」を感じられなくなるかもしれません。今回、名張市の歴史を辿ってみました。その土地の歴史を知ることは、未来という歴史を築くための礎となります。人が去っても、子供が減っても、歴史は残ります。その土地の持つ歴史や文化を知り、温めることで、そこに「魅力」を残すことが出来るのではないでしょうか?
さて、私は散々名張市の悪口を言い散らかしましたが、郷土愛を持ってこれを書かせていただきました。私は名張市が大好きです。名張市は良い所です。そんな名張市に、
ぜひ、来てだあこ。

 

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参考文献

名張市公式ホームページ

癒しの隠れ里 名張 ~澄み渡る自然と悠久の浪漫~ - だあこ!名張の素敵!発見web 名張市移住・定住支援サイト

三重 なばりの観光ガイド – 一般社団法人 名張市観光協会

伊賀流忍者博物館

三重県名張市の人口

名張市 - Wikipedia

近鉄大阪線 - Wikipedia

 

歴ブロ 衰退しゆく、名張の地3

名張史(中世〜近代)

この記事の作者は名張出身です。一部名張の批判と思われるところもございますが作者の愛情によるものです

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain〈文野結化〉

そーいや、伊賀国って言えば、忍者やな

 

  

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〈歴山敬史〉

伊賀忍者は有名やな!
実はなー、戦国時代になっても伊賀国を支配する領主は現れやんくって、群雄割拠の自治連合が形成されてたんや

 

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そこで、互いの小武士団同士を監視し合うために生まれたのが、伊賀忍者なんや!
その起源は、前回話した黒田悪党って言うのが有力な説やで

 

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伊賀流は、伊賀国の地に伝わってた忍術流派の総称で、甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の一つや
普段は農業とか行商をして各地の情報を探る一方、指令が下った時には戦場とかその後方に出向いたそうな

 

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著名な伊賀忍者としては、服部半蔵百地三太夫、藤林長門守とかが挙げられるんやけど、このうちの百地三太夫は、名張の赤目やな!
修験道の地、赤目四十八滝は、忍者の修行場やったとされてるんや!!

 

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ん、めっちゃ語るやん

 

 

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伊賀忍者は、伊賀地方の出身者にとって、唯一の誇りらしいからな

 

 

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ほんまになんもないんやな……

 

 

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まあ、その自慢の伊賀忍者も、1581年に、忍者による陰謀が発端の天正伊賀の乱織田信長に滅ぼされた後は自然消滅していったんやけど……

 

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あら残念。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainそれと、伊賀地域には、伊賀忍者の携帯食であったといわれる「かたやき」

https://www.kankomie.or.jp/sp/spot/detail_247.html

っていうお菓子が伝わってんねん

 

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何それ?

 

 

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原料は小麦粉、砂糖、胡麻とかを使ってて栄養価が高くて、添加物は使用しやへんから安心して食べられるで
ただ、めっちゃ硬くて、ハンマーで叩き割って食べやなあかんねん

 

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いや、そんなん食い物じゃないやん

 

 

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やから、最近は柔らかい「かたやき」とか、美味しく食べれそうなのがいっぱいあるらしいで


 名張市の歴史・文化⑥
名張市は、かつての忍者の里、伊賀国の一部である。名張の忍者と言えば、百地三太夫。しかし、彼が実在の人物であったかどうかは、まだ分かってはいない。そうは言っても、名張市民にとって、伊賀忍者は誇りであり、心の支えでもある。そのため、名張市民は、彼が実在したと信じ続けている。
また、伊賀名物に、「かたやき」がある。かつて忍者の里伊賀国で、忍者の保存食・携帯食とされていたカチンコチンに硬いせんべい。お土産などにおすすめであるが、衰退の一途を辿る名張市内に残っているのはお爺さんお婆さんばかりであり、名張市民がこれを食べることはまずない。むしろ不可能である。歯がない。名張市の再興は、儚い夢の話である。

 

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そんで、戦国の世が終わって江戸時代になったら、伊勢・伊賀国領主として藤堂高虎が入って来たんやで

 

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はーん

 

 

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藤堂高虎は、築城の名手とか言われてた人やな

 

 

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ひーん

 

 

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そのあと、高虎が伊勢・伊賀国領主となってから27年後の1635年に、ようやく藤堂高吉が名張の地に入って来たんや

 

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ふーん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plainそれから、廃藩置県まで260年余り、11代にわたって名張藤堂家がこの地に西方の守りとして居を構えてたんやで

 

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へーん

 

 

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名張藤堂家邸跡は、当時の名張藤堂家のお屋敷の跡や
いま残されてる屋敷は、1710年の名張大火で焼失した後に再建された、その一部だけなんやけどな

 

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ほーん

 

 

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相づちが適当やな

 

 

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そんなことあらへんで!

 

 

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ほんとかな……
あと江戸時代の話では、初瀬街道の宿場町として栄えてたんや

 

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名張はお伊勢参りに行くまでの重要な通り道やってん
下の写真は、その時の道標となった常夜灯で、名張市最大のやつや

 

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常夜灯には「天保三年」って書かれてて、1832年に作られたってことになるんや

 

 

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すごーい
名張でもちゃんと人の往来があったんやなぁ

 

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そうやで
名張には、いまでもその時の風情ある街並みが残ってるんや

 

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すごいやん名張
じゃあそのあとの明治時代の名張ってどんなんやったん?

 

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明治時代には、あんまりぱっとした出来事は無かったような気がするなぁ
名張に再び光が差したのは、1930年に、今の近鉄大阪線、参宮急行電鉄が開通した時かな

 

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名張にもやっと鉄道が通ったんやな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainあとは、名張江戸川乱歩の出生地なんやで

 

 

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えっ、江戸川……?

 

 

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そうやで
あの某人気漫画の小さくなった主人公は、名張が無かったら正体隠せやんかったんやで

 

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名張すごっ

 


 名張市の歴史・文化⑦
名張は、江戸時代には初瀬街道の宿場町として発展した。その当時、名張の地には名張藤堂家が屋敷を構えており、今も名張藤堂家邸跡としてその一部が残されている。現在の名張の街は、当時の街並みが原型。「ひやわい」と呼ばれる民家と民家に挟まれた狭い路地は、名張名物となっている。
江戸時代には城下町・宿場町として栄えた名張であったが、明治以後は交通の便に恵まれなかった。1922年からは、伊賀上野名張を結ぶ伊賀鉄道が走っていた。現在名張市内の路線は廃線となっている。しかし、これは局地的な地方鉄道であり、名張市の発展が現実味を増したのは、1930年、現在の近鉄大阪線である参宮急行電鉄の後から。
また、名張江戸川乱歩生誕の地である。「怪人二十面相」を読むことは、名張市民としての必修科目であるらしい。名張市立図書館には、「乱歩コーナー」がある。

 

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次回
名張史(近代〜現代)

歴ブロ 衰退しゆく、名張の地2

名張史(原始〜中世)

この記事の作者は名張出身です。一部名張の批判と思われるところもございますが作者の愛情によるものです。

 

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〈歴山敬史〉

それじゃあ、今から名張市の歴史を紐解いていくで

 

 

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〈文野結化〉

おー

 

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名張ではなー、実は縄文・弥生時代の遺物が色んなところから出土してるんや

 

 

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その頃から人が住んでたって証拠やな

 

 

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そういうことや
古墳時代になると、名張にも古墳が作られたんやで

 

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http://www.kankou-nabari.jp/ より

 

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おー!
前方後円墳のことか!?

 

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せやせや
名張市の中で最も大規模なのは、美旗古墳群やな
4世紀から6世紀にかけて築かれた、前方後円墳を含む5基の古墳のことや

 

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へー、こんなへんぴなところにも昔から人がいたんやな

みんな物好きやったんやな

 

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そうやな
あとは、大和朝廷の支配体制が確立した飛鳥時代、672年に起きた壬申の乱の時に、大海人皇子が大和から名張の地を通って近江へと向かったそうやで。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain大海人皇子は、大化改新で活躍した天智天皇の弟のことやで
のちに美濃で天智天皇の子である大友皇子を倒して、天武天皇になった人や

 

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へー
そんな偉い人も名張の地に足を踏み入れてたんやなぁ

 

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名張は、古代から飛鳥から東国へ向かう道の交通の要衝やったそうやからなー
その証拠にさー、奈良時代に成立した日本最古の和歌集「万葉集」にも、「なばり」の地名が記されとるんやー

 

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えっ!?
あんなマイナーな名前の土地が、そんな有名な歌集に登場してるの!!?

 

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ありえやん……

 

 

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めっちゃ言いますやん
當麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻が詠んだ、「わが背子はいづく行くらむおきつもの隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ」っていう歌やで

 

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「私の夫はどこを旅しているのだろうか。きっと今頃は遠くに隠れる名張の山を越えているだろう。」
っていう意味なんや

 

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ほぇー

 

 

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ちなみに、「名張(なばり)」っていう名前は、この歌に出てくる、「奥深く隠れること」を意味する「隠る(なばる)」が語源なんや

 

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どうりで陰キャみたいな名前やと思ったわけや

 


 名張市の歴史・文化④
名張では、古墳時代に美旗古墳群が形成された。それらは、当時の名張大和朝廷の関係を知る上で重要なものとなっている。
しかし、近くに住むおばさん曰く、それは墓荒らしに合った古墳であるそうだ。その真偽のほどは定かではないが、なんという荒れ具合であろう。しかし、これが名張の市民性であろうか、いやちがう。名張で活動するヤンキーは、バイクに乗らずに「ブーン、ブブブーン」などと叫びながらチャリをこぎ回し、路上ライブさながら駅前や地下通路でラップバトルをするような人々である。ヤンキーらしからぬ活動内容である。また、墓荒らしのことを教えてくれたおばさんは、私に野菜とお菓子をくれた。皆心優しいのが名張の市民性であると言えよう。
「なばり」という地名は、奈良時代に成立した、日本最古の和歌集「万葉集」にも登場する。「わが背子はいづく行くらむおきつもの隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ」という歌である。ちなみに、「おきつもの」は、「なばり」にかかる枕詞。市内を流れる名張川には、沖津藻大橋(おきつもおおはし)がかかる。

 

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やっぱり名張って昔から何も無かったんやなー

 

 

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まあ山の中やでしゃーないわな
名張市で人口の増加が始まったのは、墾田永年私財法が施行された頃から平安時代にかけて、東大寺の荘園として発達し始めてからなんやー

 

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へー
でも、名張の住人とか、めっちゃ野蛮そうやん
東大寺様の言うことなんか絶対聞かへんやろ

 

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いやー、まさにその通りやで
鎌倉時代以降、全国では有力武士団が形成されていったんやが、名張を含む伊賀地方ではその形成は遅れとってー、

 

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どんどん自治勢力が武装化してなー、荘園領主に対抗するようになったんやー

いわゆる「黒田悪党」って呼ばれた人らやな

 

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伊賀地方は他国と比べて守護の勢力がめっちゃ弱くって、こうゆう悪党の討伐を幕府から命じられても一向にできひんかったそうな

 

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ふーん
なんかよー分からへんけど、昔っから荒れとったんやな、名張

 

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……。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainそーいえば、観阿弥世阿弥って知ってる?

 

 

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知ってるーっ!
歴史の教科書に載ってたー!

 

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能楽大成者の観阿弥は、名張市小波田の地で、初めて後の観世座になる猿楽座を建てたんや
その偉大な功績を世に伝えるために、今も定期的に、能楽愛好家の仕舞とか、地元の子どもたちの狂言とかが演じられてるんやで

 

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名張にも娯楽なんていう概念があったんやな

 

 

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失礼やな

 


 名張市の歴史・文化⑤
名張市は、元々は東大寺の荘園であった。しかし、名張では荘園のルールなど通用せず、誰も守らず、のちに「黒田悪党」と呼ばれる人々が現れ、名張の地は、古くから荒れまくっていた。
名張は、能楽大成者観阿弥が猿楽座を建てた場所であるが、名張市民でそのことを知るものはそれほど多くない。名張の子どもは、馬鹿が多い。市内の中学校、高校の偏差値はかなり低い。高いのは、標高だけである。

 

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次回
名張史(中世〜近代)

歴ブロ 衰退しゆく、名張の地1

1.名張市とは

この記事の作者は名張出身です。一部名張の批判と思われるところもございますが作者の愛情によるものです。

 

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〈文野結化〉

たかし〜、遊びに来たよ〜

 

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〈歴山敬史〉

なんやねん、もう……せっかくゆっくりしとったんに。

 

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えっ、なんでそんねん訛ってるん?
変な喋り方やなぁ

 

f:id:historycultureblog:20200405172722j:plain筆者が訛ってるからやで
自分こそ田舎臭い喋り方してますやん

 

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ええ、うそやん!

 

f:id:historycultureblog:20200407011455j:plainうそやない、ほんまや
……ところで、今日はおもろい場所見つけたんやけど、知りたい?

 

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気になるー
どこー?

 

f:id:historycultureblog:20200407012046j:plain人口減少と高齢化!古くから忍者に守られてきた辺境地!!ニュータウン政策の失敗を物語る街!!!

三重県名張市や!!!!!!

 

f:id:historycultureblog:20200405211346j:plainえ、北海道?

 

 

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それは夕張や

 


 名張市の歴史・文化①
その知名度ゆえに、北海道の夕張市と間違えられる。その違いは「口」の有無である。また、三重県内でも、名張の地を知る者は少ない。

 

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それじゃあ、名張市の歴史の前に、地理的な特徴から見ていこか

 

 

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うん

 

 

f:id:historycultureblog:20200406020433j:plain名張市は、三重県奈良県の県境に位置しとって、旧伊賀国の南部に当たる地域や

 

 

 

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四方を山に囲まれとって、山々は深緑、紅葉など四季折々の姿を見せてくれるし、川のせせらぎや鳥のさえずりを聞きながら過ごすことができる、のどかな街なんや

 

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えっ、三重県って海の県じゃなかったん??

 

 

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その通りやで
せやけど名張市は違うんや、名張市三重県から見放されたんや

 

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ふーん、そうなんや
でもええやん
美しい自然に囲まれ、自然を感じながら暮らすことができるってことやなー

 

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http://www.city.nabari.lg.jp/index.html より

 

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せやで
ちなみに、三重県内の川はそのほとんどが伊勢湾とか熊野灘に向かって東側へ流れてるんやけど、青山高原を挟んで西側の地域、すなわち伊賀市名張市の川は、西側に向かって流れて、淀川と合流して大阪湾に流れ込むんやー

 

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へー
そんじゃあ、名張人は関西人ってことになるなぁ

 

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確かに、元々大阪から移住して来た住人も多くって、方言とか食文化は関西圏のものに近いし、大阪方面に通勤する人は多いかな
ただ、大阪の人にも、「名張市」は全くと言っていいほど認知されとらんのや
「エセ関西人」って呼ぶのが正解やで

 

f:id:historycultureblog:20200407012046j:plain三重県から見放されたからと言って、大阪に拾ってもらえるわけでもなく、いわばどこからも見捨てられた捨て猫みたいな存在なんや

 

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なるほど
誰にも相手にされない、独立国家名張ってことやね

 

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いや、そうは言ってへん

 

 

f:id:historycultureblog:20200405172722j:plainそれともうひとつ、内陸地域やってこともあって、夏と冬、昼と夜の気温差が大きくて、夏は猛暑、冬は三重県下最強の冷え込みになるんや

 

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それに加えてさー、日照時間は少なくって、年間を通じて霧が発生するねん

 

 

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えっ、住みにくすぎやろ
そんなとこ誰も住めへんわ

 

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いやいや、そういうわけでもないんやで
この気候のおかげで、農作物は美味しく育つし、住んでる人も人情深くなるんやー


 名張市の歴史・文化②
三重県奈良県の県境に位置し、旧伊賀国の南部に当たる地域。四方を山に囲まれ、というよりも山の中に存在していて、豊かな自然が四季折々の姿を見せてくれる。
市内を流れる川はみな大阪湾へ流れ込み、大阪方面との結び付きが強いといえる。よって、この一帯は東西日本の境目となる地域であり、名張市周辺から西は関西となるが、大阪人が言うには、「名張?どこやねんそれ。そんな平安時代みたいな名前の場所知らんわ。はよ帰って土器でも古墳でも作っとけや」とのこと。なお、近年の国勢調査で、大阪都市圏から除外された。
夏と冬、昼と夜の気温差が大きいメンヘラ気候で、日照時間は少なく、その代わりに霧が多く発生する。その恩恵とはいかなるものか。

 

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それと名張市は、商業地区や住宅街と団地、田畑や山などが、狭い地域に集まってるんやー。ド田舎の農村集落に住んどっても、コンビニとか市街地は結構近かったりするんやで

 

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そうなんやー
何か有名なテーマパークとか、ショッピングモールとか、そういうのは無いん?

 

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……。

 

 

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???

 

 

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リバーナっていうジャス、…イオンがあるで!

 

www.aeon.com

 

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おー!!

 

 

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かつて駅前に近鉄百貨店があったで!今は無いけどっ!

 

www.d-kintetsu.co.jp

 

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おー!!!!
何も無いんやなっ!!!!

 

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そんなこと言わんといてあげてぇや……でもその通りや
数年前までセブンイレブンが市内に1箇所も無かったんや
初出店の時は大行列が出来とったんやで

 

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ほうほう。

 

 

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まあ、里山の原風景が広がる農村集落と、成熟した住宅地が共存する街並みが広がるのが、名張の特徴やと言えるな

 

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http://www.city.nabari.lg.jp/citysales/555/index.html より

 

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「中途半端な田舎」ってわけやねー

 

 

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「ちょうどいい」って言ってあげて……

 


 名張市の歴史・文化③
田園地帯の農村集落と、やけに人口密度の高い住宅街・団地が、山の中の狭い地域にひしめき合っている。
江戸時代から宿場町として栄えた、元商業の中心地、名張地区。ニュータウンとして近鉄により開発されたのち、近鉄に見放された住宅団地、桔梗が丘地区。大阪から近くもなく遠くもないなどとうたう百合が丘地区。山を切り開いて作られた、自転車殺しの坂道住宅地、つつじが丘地区。どこを向いてもあるのは山、山、山の国津地区。滝とオオサンショウウオに支えられる観光名所、赤目地区。田んぼが広がり、コンビニが出店不可能な未開の地、美旗地区。
ただし、市内にはお出かけスポットと呼べるものが何も無いため、必然的に市外へ遊びに行くこととなる。人気のデートスポットのひとつに、奈良県イオンモール橿原(通称アルル)がある。もちろん進学も、ほとんどが市外である。外へ進学したが最後、誰も帰って来てはくれない。
「ちょうどいい田舎」いや、「中途半端な田舎」である。

 

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次回
名張史(原始〜中世)