歴史・文化探求ブログ

歴史・文化Projectの歴史・文化探求ブログです。

歴ブロ 衰退しゆく、名張の地3

名張史(中世〜近代)

この記事の作者は名張出身です。一部名張の批判と思われるところもございますが作者の愛情によるものです

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain〈文野結化〉

そーいや、伊賀国って言えば、忍者やな

 

  

f:id:historycultureblog:20200412021356j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

〈歴山敬史〉

伊賀忍者は有名やな!
実はなー、戦国時代になっても伊賀国を支配する領主は現れやんくって、群雄割拠の自治連合が形成されてたんや

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

そこで、互いの小武士団同士を監視し合うために生まれたのが、伊賀忍者なんや!
その起源は、前回話した黒田悪党って言うのが有力な説やで

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

伊賀流は、伊賀国の地に伝わってた忍術流派の総称で、甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の一つや
普段は農業とか行商をして各地の情報を探る一方、指令が下った時には戦場とかその後方に出向いたそうな

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

著名な伊賀忍者としては、服部半蔵百地三太夫、藤林長門守とかが挙げられるんやけど、このうちの百地三太夫は、名張の赤目やな!
修験道の地、赤目四十八滝は、忍者の修行場やったとされてるんや!!

 

f:id:historycultureblog:20200412021552j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

ん、めっちゃ語るやん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

伊賀忍者は、伊賀地方の出身者にとって、唯一の誇りらしいからな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

ほんまになんもないんやな……

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

まあ、その自慢の伊賀忍者も、1581年に、忍者による陰謀が発端の天正伊賀の乱織田信長に滅ぼされた後は自然消滅していったんやけど……

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

あら残念。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainそれと、伊賀地域には、伊賀忍者の携帯食であったといわれる「かたやき」

https://www.kankomie.or.jp/sp/spot/detail_247.html

っていうお菓子が伝わってんねん

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

何それ?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

原料は小麦粉、砂糖、胡麻とかを使ってて栄養価が高くて、添加物は使用しやへんから安心して食べられるで
ただ、めっちゃ硬くて、ハンマーで叩き割って食べやなあかんねん

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

いや、そんなん食い物じゃないやん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

やから、最近は柔らかい「かたやき」とか、美味しく食べれそうなのがいっぱいあるらしいで


 名張市の歴史・文化⑥
名張市は、かつての忍者の里、伊賀国の一部である。名張の忍者と言えば、百地三太夫。しかし、彼が実在の人物であったかどうかは、まだ分かってはいない。そうは言っても、名張市民にとって、伊賀忍者は誇りであり、心の支えでもある。そのため、名張市民は、彼が実在したと信じ続けている。
また、伊賀名物に、「かたやき」がある。かつて忍者の里伊賀国で、忍者の保存食・携帯食とされていたカチンコチンに硬いせんべい。お土産などにおすすめであるが、衰退の一途を辿る名張市内に残っているのはお爺さんお婆さんばかりであり、名張市民がこれを食べることはまずない。むしろ不可能である。歯がない。名張市の再興は、儚い夢の話である。

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

そんで、戦国の世が終わって江戸時代になったら、伊勢・伊賀国領主として藤堂高虎が入って来たんやで

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

はーん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

藤堂高虎は、築城の名手とか言われてた人やな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ひーん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012148j:plain

そのあと、高虎が伊勢・伊賀国領主となってから27年後の1635年に、ようやく藤堂高吉が名張の地に入って来たんや

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ふーん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plainそれから、廃藩置県まで260年余り、11代にわたって名張藤堂家がこの地に西方の守りとして居を構えてたんやで

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

へーん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

名張藤堂家邸跡は、当時の名張藤堂家のお屋敷の跡や
いま残されてる屋敷は、1710年の名張大火で焼失した後に再建された、その一部だけなんやけどな

 

f:id:historycultureblog:20200412022701j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ほーん

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012235j:plain

相づちが適当やな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012343j:plain

そんなことあらへんで!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

ほんとかな……
あと江戸時代の話では、初瀬街道の宿場町として栄えてたんや

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

名張はお伊勢参りに行くまでの重要な通り道やってん
下の写真は、その時の道標となった常夜灯で、名張市最大のやつや

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

常夜灯には「天保三年」って書かれてて、1832年に作られたってことになるんや

 

 

f:id:historycultureblog:20200412023131j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

すごーい
名張でもちゃんと人の往来があったんやなぁ

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

そうやで
名張には、いまでもその時の風情ある街並みが残ってるんや

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

すごいやん名張
じゃあそのあとの明治時代の名張ってどんなんやったん?

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

明治時代には、あんまりぱっとした出来事は無かったような気がするなぁ
名張に再び光が差したのは、1930年に、今の近鉄大阪線、参宮急行電鉄が開通した時かな

 

f:id:historycultureblog:20200410012343j:plain

名張にもやっと鉄道が通ったんやな

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainあとは、名張江戸川乱歩の出生地なんやで

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

えっ、江戸川……?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

そうやで
あの某人気漫画の小さくなった主人公は、名張が無かったら正体隠せやんかったんやで

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

名張すごっ

 


 名張市の歴史・文化⑦
名張は、江戸時代には初瀬街道の宿場町として発展した。その当時、名張の地には名張藤堂家が屋敷を構えており、今も名張藤堂家邸跡としてその一部が残されている。現在の名張の街は、当時の街並みが原型。「ひやわい」と呼ばれる民家と民家に挟まれた狭い路地は、名張名物となっている。
江戸時代には城下町・宿場町として栄えた名張であったが、明治以後は交通の便に恵まれなかった。1922年からは、伊賀上野名張を結ぶ伊賀鉄道が走っていた。現在名張市内の路線は廃線となっている。しかし、これは局地的な地方鉄道であり、名張市の発展が現実味を増したのは、1930年、現在の近鉄大阪線である参宮急行電鉄の後から。
また、名張江戸川乱歩生誕の地である。「怪人二十面相」を読むことは、名張市民としての必修科目であるらしい。名張市立図書館には、「乱歩コーナー」がある。

 

f:id:historycultureblog:20200412023530j:plain

 

次回
名張史(近代〜現代)