歴史・文化探求ブログ

歴史・文化Projectの歴史・文化探求ブログです。

歴ブロ 歴史人物名鑑① 外山正一先生

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

新渡戸稲造ってかっこいいよね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200501133319j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

どうしてまた?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

 面接の時に「我太平洋の架け橋にならん」って言えるなんて凄いなあって思って。でも誰がその時の面接官だったんだろう・・・

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

当時東大文科大学学長の外山正一先生だよ。 

 

 

f:id:historycultureblog:20200501134524j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

へぇー。この人はどんな事をした人なの?

 

  

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 一言で表せば、「海外の文学の考え方を日本に取り入れようとした人」かな。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

面白そう。教えてよ!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 わかった。次の項から詳しく解説するね。

 

 

1.外山正一の生い立ちと幕府のもとでの渡英

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

 外山先生は、江戸小石川(今の東京都文京区、小石川養生所があるところ)に生まれたんだ。父親は江戸幕府直属の家臣(旗本)で、歩兵指南役だったみたいだね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

歩兵指南役ってことは武官かな?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

そうだね。親としては、武芸で名を挙げてほしかったみたいだけど、彼は次第に学問で頭角を現すようになるんだ。13歳のときには蕃書調所(注1)で英語を学び、16歳には開成所の教授方になったんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

ちょっとまって、それってかなりの出世じゃない?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

確かにそうだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

つまり、それだけ外山先生は早咲きの秀才だったということなのかな。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

そうだね。それが証拠に外山先生は慶応2年(1866年)に勝海舟の推挙のもと幕府派遣留学生として渡英しているんだ。そしてイギリスの最新の文化制度を学んでいたみたいだね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

つまり、今の感覚でいうと国の推挙によって留学したってことだよね。凄いじゃん!

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

でも、明治元年(1868年)、幕府の瓦解によって急遽帰国を余儀なくされてしまうんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

確かに費用を負担している幕府が崩壊したら留学の継続は不可能になるよね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

そしてその後、外山先生はしばらくの間静岡の学問所に努めていたんだけど、幕府のもとで留学をした逸材を新政府は高く買って、明治3年(1870年)には外務省弁務少記に任ぜられたんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

え・・・てことは教師から官僚のエリートコースに!?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

そういうことになるね。

 

 

 注釈

1ペリーの来日後、幕府が洋学研究の必要性を痛感して安政3年(1856年)に作った研究所。その後洋学調所と改名の後、拡充されて開成所となった。東京大学の源流の一つ。

 

2.新政府のもとでの渡米と、その帰国後の日本文化への影響

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

ところで、外山先生は外務省に入った後どうなったの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

着任の後、早速森有礼少弁務使の秘書として渡米したよ。そしてその翌年の明治4年(1871年)、現地において外務権大録になったんだ。


f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

 ここでもうなぎのぼりなのね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

ああ、だけどその後すぐに(明治5年・1872年) 辞職してしまったんだよね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

え!?なんで?こんなにも調子がいいのに。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

 辞職した後、奨学金を得てミシガン州アナーバー・ハイスクール、ついで明治6年(1873年)にミシガン大学に入学した所をみると、日本で偉い役職につくのではなく向こうの土地で学びたかったんだろうね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

学に貪欲な人だったんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

ああ、それにこの南北戦争直後のアメリカで学んだ哲学と科学、そして文化は後々の彼の人生に多大な影響を与えたんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

例えば?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

ちょっとこの詩を見て。

 

 

軍歌・抜刀隊より

  1. 我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
    敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
    之に從ふつはものは 共に慓悍决死の士
    鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
    起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
  2. 皇國の風と武士の 其身を護る靈の
    維新このかた廢れたる 日本刀の今更に
    又世に出づる身の譽 敵も身方も諸共に
    刃の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の
    死ぬべき時は今なるぞ 人に後れて恥かくな
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
  3. 前を望めば劔なり 右も左りも皆劔
    劔の山に登らんは 未來の事と聞きつるに
    此世に於てまのあたり 劔の山に登るのも
    我身のなせる罪業を 滅す爲にあらずして
    賊を征討するが爲 劔の山もなんのその
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
  4. 劔の光ひらめくは 雲間に見ゆる稻妻か
    四方に打出す砲聲は 天に轟く雷か
    敵の刃に伏す者や 丸に碎けて玉の緒の
    絶えて墓なく失する身の 屍は積みて山をなし
    其血は流れて川をなす 死地に入るのも君が爲
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
  5. 彈丸雨飛の間にも 二つなき身を惜まずに
    進む我身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
    墓なき最期とぐるとも 忠義の爲に死ぬる身の
    しにて甲斐あるものならば 死ぬるも更に怨なし
    我と思はん人たちは 一歩も後へ引くなかれ
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
  6. 我今茲にしなん身は 君の爲なり國の爲
    捨つべきものは命なり 假令ひ屍は朽ちぬとも
    忠義の爲に捨る身の 名は芳しく後の世に
    永く傳へて殘るらん 武士と生れた甲斐もなく
    義もなき犬と云はるゝな 卑怯者となそしられそ
    敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
    玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

これは?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

外山先生が作った、西南戦争田原坂の戦いで奮戦した警視抜刀隊を称える詩だね。のちにこれにお雇い外国人のシャルル・ルルーが節を付けて旧日本陸軍の軍歌「抜刀隊」になったんだ。ちなみにこの軍歌は同じシャルル・ルルーが作った扶桑歌と合わさって陸軍分列行進曲となって、今の陸上自衛隊にも受け継がれているよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

へぇー。でもアメリカの影響を受けたって言うけど見た感じ生粋の日本語じゃん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plainでも、今の”詩”には明らかにない特徴があるんだけど、気づかない?

これはもともとは歌ではなく”詩”だよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

あっ!最後の「敵の滅ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 玉散る剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし」の所が必ず繰り返しになってる!

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

正解。これは、外山先生が米国留学時に親しんだ南北戦争の軍歌の形を踏襲したからこういう形になっているんだよ。そしてこの歌詞の形は現代の音楽にも生きているね。参考までに、アメリカ軍歌の『ジョニーが凱旋するとき』を載せておくよ。

 

 

ジョニーが凱旋するとき(アメリカ軍歌1863年)

1 When Johnny comes marching home again
Hurrah! Hurrah!
We'll give him a hearty welcome then
Hurrah! Hurrah!
The men will cheer and the boys will shout
The ladies they will all turn out
And we'll all feel gay
When Johnny comes marching home.
 (ジョニーが再び行進しながら家に帰って来る時には
万歳!万歳!
私達は心からの歓迎で迎えるだろう
万歳!万歳!
男達は喝采し、男の子達は叫び
淑女は皆が迎えに出て来る。
そして皆が陽気になるだろう
ジョニーが行進しながら家に帰って来る時には。)

 

2 The old church bell will peal with joy
Hurrah! Hurrah!
To welcome home our darling boy,
Hurrah! Hurrah!
The village lads and lassies say
With roses they will strew the way,
And we'll all feel gay
When Johnny comes marching home.

(村の古い教会は喜びの鐘を鳴らすだろう
万歳!万歳!
私達の愛する男の子を迎えるために、
万歳!万歳!
村の若者と女の子達は声を掛ける、
道に撒く為の薔薇の花を持ち、
そして皆が陽気になるだろう
ジョニーが行進しながら家に帰って来る時には。)

 

3 Get ready for the Jubilee,
Hurrah! Hurrah!
We'll give the hero three times three,
Hurrah! Hurrah!
The laurel wreath is ready now
To place upon his loyal brow
And we'll all feel gay
When Johnny comes marching home.

(祝賀の準備をしよう、
万歳!万歳!
そして我等の英雄に3度の栄誉の歓呼を送ろう、
万歳!万歳!
月桂冠は用意出来た
誠実な彼の頭に載せるために
そして皆が陽気になるだろう
ジョニーが行進しながら家に帰って来る時には。)

 

4 Let love and friendship on that day,
Hurrah, hurrah!
Their choicest pleasures then display,
Hurrah, hurrah!
And let each one perform some part,
To fill with joy the warrior's heart,
And we'll all feel gay
When Johnny comes marching home.

(その日は愛情と友情の日としよう、
万歳、万歳!
愛情と友情の最上の喜びを示す為に、
万歳、万歳!
そして誰もが何かしら出来るようにしよう、
私達の戦士の心を喜びで満たす為に、
そして皆が陽気になるだろう
ジョニーが行進しながら家に帰って来る時には。)

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 ちなみに帰国して少し経った明治15年には、自身が教授(注1)として通っていた東京大学(後の東京帝国大学)の同僚の矢田部良吉、井上哲次郎とともに『新体詩抄』を発表したんだ。どれも習作の域を出ないものばかりだけど、従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索し、近代文学に大きな影響を及ぼした書として名高いよ。ちなみにこの中に抜刀隊も収録されていたんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

そういえば2021年に入試が変わったけど、その試行問題の現代文の問2に、詩が含まれた問題が出たんだよね。それもこの人がいなかったら無かったことになっていたかもしれないんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

あと、一説によると日本で初めて万歳を唱えたのも外山先生だと言われているね。

大日本帝国憲法発布の記念式典で明治天皇に対して唱えたらしい(注2)。これも海外の文化の踏襲だとされているね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

この前の即位の儀で元安倍首相が唱えているのを見たけど、あれはそこから始まったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

ちなみに、日本史の教科書に出てきたモースを東京大学に呼んだのも彼なんだよ。

ただ、彼は日本の貝塚に人骨が有るのを見て、古代日本人は食人族だったのではないか(注3)という学説を立てて、結果的に明治政府の不平等条約の改正を遅らせてしまったんだけどね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

あちゃー 。他にはどんな影響があったの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

あとは、日本語を漢字や平仮名ではなくローマ字で評価すべきだとして羅馬字会を創設したり、欧米列強と渡り合うために女子教育の充実や公立図書館の整備が必要だとして世の中に訴えかけたりもしたね。その後、貴族院議員になったり、第三次伊藤博文内閣のときには文部大臣をつとめたりしたようだけど、明治33年(1900年)に中耳炎による脳症で死去してしまったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 現代日本文学の基礎を築いた方だったんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

そうだね。それじゃあ今回はこの辺にしておこうか。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

うん!
 

 

 注釈

1日本人で初めて教授になったのは外山先生だとされている。

2それまで日本には天皇を歓呼する言葉がなく、出御にあたってただ最敬礼するのみだったが、東京帝国大学の学生一同で皇居前に並び明治天皇を奉送迎しようという議が起こり、これに際して最敬礼では物足りないので歓呼の声を挙げようという話が教師の間で持ち上がった。そこで、フランス語の「ヴィヴ・ラ・フランス(Vive la France=フランス万歳)」や英語の「セーヴ・ザ・キング(Save the King=国王を護りたまえ)」のような唱和の言葉を考えることになり、和田垣謙三教授の提議した「万歳、万歳、万々歳」の唱和が決められた。しかし、当日最初の「万歳」が高らかにあがると馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えずじまいに終わった。これを聴いた人々は「万歳」を再唱したと思ったようで、以後、めでたい時の歓呼の声として「バンザイ」が唱えられるようになり、「万々歳」は定着しなかった。(Wikipediaより引用)

3日本政府は人骨以外には焼かれた痕跡が有るのに対して、人骨には焼かれた痕跡がないとしてこの説を覆すことに成功した。

  

 

歴史人物名鑑外山正一編終

 

外山正一 - Wikipedia

外山正一(とやままさかず)とは - コトバンク

山川日本史小辞典

蕃書調所 - Wikipedia

開成所 - Wikipedia

新渡戸稲造 - Wikipedia

抜刀隊 (軍歌) - Wikipedia

 エドワード・S・モース - Wikipedia

万歳 - Wikipedia

https://www.daigakukotohajime.com/blank-168

 

 

歴ブロ 桜匂う地、岩倉市(岩倉編)

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

たかし〜遊びに来たよー!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

あ、結化。
 

 

f:id:historycultureblog:20200410012418j:plain

 ちょっと、何その反応。またパソコンばっか見て!今度は何調べてるのよ?見せないと・・・

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

 ああもう、わかったよ。今調べてたのは山内一豊公に縁の有る愛知県岩倉市だよ。(こいつの前で調べごとに集中するのは無理だな・・・)

  

岩倉市の地図 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

山内一豊って言ったらあの功名が辻の主人公? 

 

 

f:id:historycultureblog:20200526102044j:plain

大河ドラマ功名が辻』放映記念に建てられた記念碑。

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

そうだね。岩倉市は彼の故郷なんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へぇー、岩倉市ってどんなところなんだろう。

 

 

ちょっと俺用事があr・・・f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

たかしー、教えてー!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

やっぱりー・・・

 

 

1.岩倉市の歴史(縄文〜弥生時代)

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

もともと、岩倉は木曽川が形成した犬山扇状地扇端の自然堤防上に発達した集落で、今でも縄文、弥生の遺跡がそこら中に点在しているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

例えば、岩倉市史跡公園はそのいい例で、縄文時代後期から弥生時代後期にかけての遺跡である大地遺跡(だいちいせき)の跡地なんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200526152523j:plain

岩倉市史跡公園https://ja.wikipedia.org/wiki/岩倉市史跡公園より。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ホントだ!奥の方に竪穴住居が見える。 

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainちなみに、ここからは沢山の土器が出土していて、それらの一部は岩倉市図書館の郷土資料室で展示されているんだよ。さらにこれを見て。

 

f:id:historycultureblog:20200526153552j:plain

鳥居建民家https://ja.wikipedia.org/wiki/岩倉市史跡公園より


 f:id:historycultureblog:20200410012324j:plainこれは?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

市内から移された民家で、十八世紀中頃(江戸時代)に建てられたものなんだけど、「鳥居建」と呼ばれる大黒柱を持たない建築様式で建てられていて、室町時代の家屋の様式をそのまま取り入れているんだ。現在はあまり現存していないんだよ。

 

 へぇー、なかなか凄いのね。f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

 

 

2.岩倉市の歴史(岩倉城統治時代)

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

ところで、岩倉は弥生時代以降どうなったの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

鎌倉時代室町時代は荘園として栄えたんだけど、そこまではあまり進展はなかったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

うん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

 でも、文明11年(1479年)に織田伊勢守家(岩倉織田家)(注1)当主の織田敏広(もしくは織田信安)が岩倉城を築城してからは、ここを拠点として岩倉織田家尾張上四郡を支配するなど、統治の上で重要な場所となったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200527014820j:plain

現在の岩倉城阯https://ja.wikipedia.org/wiki/岩倉城_(尾張国)より

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

でもそれも、永禄2年(1559年)3月に信安の跡を継いだ嫡男信賢が織田信長に敗れ(注2)岩倉城は落城すると、岩倉城は廃城となってしまったんだけどね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

そうなんだ・・・ところで山内一豊はどうなったの?岩倉で戦いがあったってことは当然巻き込まれているはずだよね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

ああ、当時山内家は先述の織田信安、(後に信賢)の配下で父の盛豊は家老として仕えていたんだ。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立したんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain弘治3年(1557年)に兄の十郎が黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死(もしくは自刃)してしまったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain結果こうして主家と当主を失った山内一族は離散して、諸国を流浪することになったんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へぇー。

 

 

注釈

1当時織田家尾張国内にいくつかあり岩倉織田家尾張国の北部四郡の守護代を任されていた。

2岩倉織田家は織田弾正忠家当主織田信長の弟である織田信行の謀反と連動し、織田弾正忠家と対立したため、織田信長に攻め込まれた。

 

3.岩倉市の歴史(近代〜現代史)と文化

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ところで、岩倉城が落城した後、岩倉はどうなったの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

・・・それが、そこから明治時代になるまで、殆ど目立った事柄はなかったんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

そ、そうなんだ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

でも、明治・大正時代には養蚕・養鶏が岩倉の発展を助けたんだ。ちなみにその影響もあって、今でもゆで卵の生産量は日本一だし、名古屋コーチンがブランドとして人々の間で定着しているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

 名古屋コーチン美味しいよね!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

ちなみに第二次世界大戦には一宮他周辺の地域の学童疎開を受け入れたりしたんだ。そして終戦後には市の中心を名古屋鉄道犬山線が通り、名古屋駅まで10数分の地の利から昭和30年代後半から名古屋市ベッドタウンとして発展したんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

 江南市と似ているね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

そうだね。地理的にも似ているからね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

ところで、なにか観光地はあるの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

うーん・・・毎年四月に五条川で桜祭りがあるよ。去年(令和二年・2020年)はコロナで中止になったけど、毎年3万人近くの人が桜を見に集まるんだ。その桜は桜の名所100選にも選ばれているんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200527020917j:plain

五条川に咲く桜https://sp.jorudan.co.jp/hanami/spot_255.htmlより

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 きれいだね。ふぁー、なんか眠くなってきたなあ・・・そろそろ帰るね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

それじゃあ今回はここまでにしようか。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 うん。

 
岩倉編終わり

 

参考文献

岩倉市 - Wikipedia

岩倉市史跡公園 - Wikipedia

岩倉城 (尾張国) - Wikipedia

山内一豊 - Wikipedia

五条川の桜並木|花見特集2020

 

協力

岩倉市民の方

 

歴ブロ 息抜き編 日本全国の化け狸たち 〜後編

※今回は少し思うところがあって、実話に基づいていない形式で書いております。各話の正体が知りたい場合はそれぞれの狸のWikipediaを御覧ください。

 

 

1.屋島太三郎狸

f:id:historycultureblog:20200506140110j:plain

四国屋島寺蓑山大明神夫妻像https://ja.wikipedia.org/wiki/太三郎狸より

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

さて、いよいよ最後の三名狸だね。この狸は三名狸のなかで、いや全化け狸のなかで多分一番良心的、良心の塊のような狸なんじゃよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

妖怪なのに?(ん?今”じゃよ”って言わなかった?)

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

ああ、普通の化け狸は結構キツイいたずらをするんだけど、太三郎狸にはそういう話が一切ないんだ。それもそのはず、太三郎狸は仏教に深く帰依した狸じゃからな。

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

太三郎狸の先祖は平重盛(平清盛の嫡男)に矢傷で死にかけたところを助け出されていてその恩義から平家の守護神になったんじゃ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

へぇー・・・それにしてもなんか口調おかしくない?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

ゴホンゴホン・・・済まない。今日は少し調子が悪くてね、話を続けようか。太三郎狸は、平家滅亡後には屋島に戦乱や凶事が起きそうなときはいち早く屋島寺住職に知らせたらしく、そうした経緯から太三郎狸屋島寺の守護神、蓑山大明神となったんだ。

 

 大明神ということは・・・神格?仏と神が融合したってことかな?f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

そうだね。多分神仏習合の考えの影響じゃないかな。ちなみに別の伝説では、屋島寺の守護神となったのは開創が唐僧の鑑真和上で、盲目の鑑真和上を案内したからと言う説もあるよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

確か、鑑真和上って奈良県唐招提寺を開創した人だよね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

 ああ。さらに、空海を助けたこともあったんだよ。空海四国八十八ヶ所霊場を創建しようとしていてその道中だったんだけど、霧のせいで山中で立ち往生していたんだ。そこに老人に化けた太三郎狸が現れて道案内をしたらしいよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

鑑真や空海の教えを聞いて感服した太三郎狸は、狸の徳を高めようと屋島に教育の場を設けて、全国から集まった若いタヌキたちに勉学を施していたとも言われているんだ。

 

 大妖怪だったんだね。f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

 

 

 f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainうん。その変化妙技は日本一と称されていて、最終的に四国の狸の総大将になったらしいんだ。「大寒(毎年1月20日頃)になると300匹の眷族が、太三郎狸が見せる源義経の八艘飛びや弓流しの幻術を見るために屋島に集まってきた」という伝説が有るくらいだから相当な腕だったんじゃないかな。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

しかも屋島寺の住職が代替わりする際にも、寺内の庭園「雪の庭」を舞台として、合戦の模様を住職の夢枕で再現してきたらしいよ。今の先々代の屋島寺の住職さんはその幻術を見たことが有るらしい。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 結構最近なんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 少し話を戻すと、後に太三郎狸は猟師に撃たれて命を落としてしまうんだ。ちなみにこれは誤射だったみたいで、猟師は悲しんだとされているよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

あらら・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

死後の霊は阿波(今の徳島県)に移り棲み、人に憑くようになったらしいんだ。嘉永年間には阿波郡林村(今で言う阿波市)の髪結いの女性に憑いて、吉凶を予言したり、狸憑きを落としていたといわれるんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

え?狸憑きを落とす?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

狸憑きというのは、狸が人間につくことで憑かれた人間は徐々に精気を失っていきやがて死んじゃう恐ろしいものなんだけど、太三郎狸はそれを祓っていたんだろうね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へー。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainこれは最近の話だけど、日清日露戦争では太三郎狸が多くの子分たちと共に満州へ出征して活躍したといわれていて、大量のアズキの粒を兵士に変えて敵陣に向かわせ、日本軍に勝利をもたらしたとも語られているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

これも明治維新後ってことは結構最近なんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

 ああ。他の狸の記録は敵であるロシアにも有ったんだよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

へー。ところでさ、前回行っていた、阿波狸合戦ってなんなの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012148j:plain

おっと。忘れるところだった。そうだね、次の項で紹介しようか。
 

 

 2.阿波狸合戦

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainまず、阿波狸合戦について概略を説明するね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

うん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

阿波狸合戦はその名の通り、江戸時代末期に阿波国(今で言う徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説だよ。別名阿波の狸合戦・金長狸合戦ともいうね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

ことの発端は、大和屋という染物屋を営む茂右衛門という人が、人々に虐められそうなタヌキを助けたところからところから始まるんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 うん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

そこから程なくして、大和屋の商売がどんどん繁盛し始めたんだ。やがて、店に務める万吉という者にタヌキが憑き、素性を語り始めたんだけど、それによればタヌキは「金長(きんちょう)」といい、206歳になる付近の頭株だったんだ。万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となったんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

恩返しってやつだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

ああ。そしてしばらくしたある日、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(今の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出たんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain金長は修行で抜群の成績を収めて、念願の正一位を得る寸前まで至ったんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

正一位?官位のこと?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainああ。この場合の正一位は神階だね。神社や神様の格だよ。ちなみに神様に寿命はないから年を経ることにどんどん進階されたんだけどね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

そんな制度があるんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain話をもとに戻すよ。その後、六右衛門は優秀な金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとしたんだ。でも金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌ってこれを拒んだんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

まあ・・・確かに助けてもらった恩義が有るからね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain ところが金長のこの態度に不満を持った六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考えて、自分の家来とともに金長に夜襲をかけたんだ。金長はともに日開野から来ていた狸の「藤ノ木寺の鷹」とともに応戦したんだけど、鷹は戦死してしまって、どうにか金長のみが日開野へ逃れられたんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

ありゃ、死人(?)が出ちゃった・・・ 

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

その後、金長は鷹の仇討ちのため同志を募って、打倒六右衛門を掲げて六右衛門軍と戦ったんだ。この戦いは金長軍が勝って、六右衛門は金長に食い殺されたと言われているね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

一応、先に手を出した六右衛門が負けたんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plainでも、金長も戦いで傷を負って、まもなく命を落としたちゃったんだ。茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐んで、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たといわれているよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

ちなみに、吉田家は江戸時代に神社の管理を任されていた家だね。

 

 

 へー。でも、太三郎狸出てこなかったね。f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 この話には異説があって、「淡路島の化け狸である芝右衛門狸も、合戦に参戦した。」という説や、「金長と六右衛門の戦死後、2代目の金長と六右衛門の息子との間で弔い合戦があったが、さっき紹介した太三郎狸が仲裁に入って、合戦は終結を迎えた。」という説など色々とありすぎて真相は謎だね。一応下にほかの説も記載しておくね。(すべてWikipediaより引用)

 

・瀕死の金長は、霊となって万吉に憑き、死後も霊として永遠に茂右衛門の家の神として報恩を誓った。これに心を打たれた茂右衛門は、金長を大明神として祀った。

 

・金長は合戦で致命傷を負ったものの、必死に日開野へ帰り、恩義ある茂右衛門に礼を述べ、力尽きた。その生き様に心を打たれた茂右衛門は、金長を大明神として祀った。

 

・六右衛門の娘の名は「小安姫(こやすひめ)」といい、彼女は金長に恋焦がれており、金長を攻めようとした六右衛門側を批難し、ついには自刃することで父を咎めようとした。だが、小安姫の死によって却って六右衛門の憎悪が増長した。また、金長も、自分を愛してくれた小安の死を知り、打倒六右衛門の決意を固めた。

 

・合戦の舞台である勝浦川を挟み、金長軍総勢600匹余り、六右衛門軍総勢600匹余りが対峙し、死闘は3日3晩に及んだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

結局真相は謎だね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

語り継がれていくうちに、色々と話は変化していくからね・・・儂も疲れたワイ。ここらで御暇するかのう。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

え!?敬史?何その口調?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012148j:plain

あれ?そういえば僕は何を!?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

なんかつかれたなあ・・・悪いけど今日はもう帰ってもらっていい?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

う、うん・・・(何が有ったんだろう?)

 

 

3.この記事を書くにあたって

 お久しぶりです。この記事を書きましたGĖNです。この記事をご覧になった皆さんの心境を一言で代弁させていただくとするならば「とうとうネタに走ったか?」だと思います。あながち間違いでは無いのですが、一つ私の下らない言い訳にお付き合いいただけないでしょうか?

 今やインターネットには情報が溢れており、情報の価値というのは暴落し尽くしたと言っても過言でもありません。正確な情報が安価で迅速に手に入るようになってしまったのです。挙句の果てにはフェイクニュースという嘘の情報すら出てきているぐらいです。そういったフェイクニュースの大半は人を騙すためにあるので、騙された人はまあ確実に怒るでしょう。先日Twitterでこのような文章を見かけました。「嘘を嘘と怒る人は増えたが、嘘を楽しむ人はいなくなった」という文章です。実際そういう人は減ったのかもしれませんが、それには「情報の正確化」が鍵になっているのではないかと僕は思うんです。この情報の正確化によって、リアルな物を作らないと誰も見てくれない。ならば騙されたと気づかないくらいリアルなものを作ってやろう。そんな状況ができてしまったのではないかということです。リアルすぎる嘘の情報というのは、大概騙されると被害の大きいものです。故に騙されると皆が怒る物となってしまうのです。しかし、このような狸の話というのはどうでしょう?このような伝説を、実際江戸時代の人が怯えながら語っていたのでしょうか?否、僕は半ば楽しみながら彼らはこれを人に語っていたのだと思います。こういうものは嘘を嘘として楽しみながら話し、聞くものです。僕は今回、そういった嘘を楽しめるような話を作ろうと思いこの話を執筆させていただきました。

 おっと、狸たちの宴会に呼ばれていたんだった。遅くなるといけないのでここらで御暇します。さようなら、またどこかでお会いしましょう。

 

参考文献

団三郎狸 - Wikipedia

団三郎狸 (だんざぶろうたぬき)とは【ピクシブ百科事典】

芝右衛門狸 - Wikipedia

芝右衛門狸(しばえもんだぬき) - 神魔精妖名辞典

太三郎狸 - Wikipedia

太三郎狸 (たさぶろうだぬき)とは【ピクシブ百科事典】

平重盛 - Wikipedia

屋島と浄願寺のタヌキ(高松市)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社

 

 

 

協力

二つ岩大明神

柴右衛門大明神

蓑山大明神

他大勢の狸様

歴ブロ 息抜き編 日本全国の化け狸たち 〜前編

※今回は少し思うところがあって、実話に基づいていない形式で書いております。各話の正体が知りたい場合はそれぞれの狸のWikipediaを御覧ください。

 

1.日本三名狸

 

文化祭にて

 

f:id:historycultureblog:20200505000935j:plain

〈歴山敬史〉
ポンポコリン♪2年3組のお化け屋敷はこっちだよ〜

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

〈文野結化〉

あれ?もしかして敬史?何その格好⁉︎

 

f:id:historycultureblog:20200505000935j:plain

あ、結化

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

ふう・・・ああ疲れた。全く、クラスの奴ら俺にこんな役を押し付けやがって・・・

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ああ、そういえば言ってたね。お化け屋敷で狸の役目やらされてるって。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

本当は文化祭なんか参加したくなかった・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

まあまあ・・・そう言わずにさ、もうすぐシフト交代でしょ?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

ああ、もう終わりだよ。
 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

そういえば妖怪と言ったら狸は定番だけど、どんな伝説が有るんだろう?敬史知ってる?

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

うーん狸だと、日本三名狸が有名だね。 

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

 日本三名狸?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸、屋島太三郎狸だよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 へえーどんなのか教えてよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

 わかった。順に説明していくね。

 

 

 2.佐渡の団三郎狸

 

f:id:historycultureblog:20200504132446j:plain

団三郎狸https://ja.wikipedia.org/wiki/団三郎狸より

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

まず最初に紹介するのは、佐渡島を根城にしていたと言われる団三郎狸だよ。一言で特徴を述べるとするならば「三名狸のなかで一番横着者かな。」佐渡では狸のことを狢(むじな)とも言ったから団三郎狢とも呼ばれているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

佐渡って確か、あの金山で有名な新潟県佐渡島だよね?
 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

 そうだね。実はこれも狸伝説に深い関わりが有るんだけどそれは後で話すとして、先に伝説の方から見ていこう。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

団三郎狸は佐渡の狸の総大将で、かなりのいたずら好きだったんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

例えばどんなことをやったの? 

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

人が夜道を歩いているときに壁を作り出したり、蜃気楼を使って人を馬鹿したり、木の葉を金に見せかけて買い物をしたりと言ったものだね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

うわ・・・かなり古典的な伝説ね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

まあここまではほとんどの人が知っているんじゃないかな。もちろん、団三郎狸は悪さもしたんだけど、その一方で人助けもしたんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

化け狸が人助け? 嘘でしょ(笑)

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

いや本当だよ。その証拠に現地の人は今でも彼のことを二つ岩大明神として祀っているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

例えば?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plainそうだね・・・例えば貧しくて困った人には金を貸していたんだ。借用書に金額、返却日、自分の名を記して判を押して置いておけば、翌日にはその借用書は消え、代りに金が置いてあったらしいよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へー良いこともするんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

でも、その金は人に化けて金山で働いたり、盗んだりして稼いでいたんだよね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

所詮は化け狸なんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

流石に怒った人間が反撃をしたこともあったんだ。ちょっとこれを見て。

 

 

団三郎が若い農夫を見つけ、彼を化かそうと団三郎は若い女に化け、具合の悪そうなふりをした。心配して声をかけてきた農夫に「腹痛で動けない」と答えた。農夫は女を送ろうと背負ったが、もしや団三郎かと直感し、女を縄でしばりつけた。慌てる団三郎に「お前さんがずり落ちないように」と答えた。危険を感じた団三郎は「降ろして下さい」と必死に頼んだ。「具合が悪いのに、なぜ降りる?」と農夫が降ろさずにいるので、団三郎は「……おしっこがしたいのです」と答えたが、農夫は笑い「お前さんのような美しい娘さんのおしっこならぜひ見てみたい。わしの背中でしなされ」と一向に降ろさなかった。やがて着いたのは農夫の自宅だった。団三郎が「ここは私の家ではありませんが?」と言うと、農夫は「団三郎、もうお前の正体はわかっている!」と言い、平謝りする団三郎を散々懲らしめた。以来、団三郎が人を化かすことはなくなったという。

(Wikipediaより)

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

退治したのは良いんだけど、農夫も変態だなあ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

まあまあそう言わず。ちなみに、佐渡には狐がいないんだけど、これも団三郎狸の仕業であるという話があるんだ。

 

団三郎が旅の途中、キツネに出会い「佐渡へ連れて行ってください」と頼まれた。団三郎は「連れて行ってはやるが、その姿ではまずい。わしの草履に化けなさい」と言った。キツネは言われた通り草履に化け、僧姿の団三郎がそれを履いて船に乗った。やがて団三郎は佐渡へ渡る舟に乗り、海の真っ只中で草履を脱いで海に放り込んだ。以来、キツネは佐渡に渡ろうとは考えないようになった。

(Wikipediaより)

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

え、酷い!

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

ハハハ、まあ確かにね。でも、狸からしたら自分たちの縄張りを荒らされては困るから、至極当然といえば当然なんだけどね。あと、こんな話もあるよ。

 

団三郎は旅の途中で1匹のキツネに会った。自分の術を自慢するキツネに対し、団三郎は「自分は大名行列に化けるのが得意なので、お前を驚かせてやる」と言って姿を消した。間もなく大名行列がやって来た。キツネは行列の中の殿様の駕籠のもとに躍り出て「うまく化けやがったな」などとからかい、たちまちキツネは捕えられ、狼藉の罪で斬殺されてしまった。行列は団三郎ではなく本物であり、彼はあらかじめ行列がここを通ることを知っていたのである。

(Wikipediaより)

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

なんか酷いことばかりやってるなあ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 

まあ、たしかに団三郎狸の逸話は結構エグいものが多いからね。それじゃあ次は淡路の芝右衛門狸について話していくよ。

 

3.淡路の芝右衛門狸

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

次に紹介するのは淡路島の芝右衛門狸だね。実は彼には大きく分けて3種類の伝説が有るんだ。兵庫県に伝わるものと徳島県に伝わるもの、そして絵本百物語に伝わるものだね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へぇーなんでなんだろう。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

これは僕の勝手な推測だけど、淡路島の地が四国と本州の中継地点だったからじゃないかな。淡路島で生まれた伝説がそれぞれに伝わって、違う伝説になったんだと思うよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

まずは、兵庫県に伝わるものから話していこうか。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

うん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

まず、芝右衛門狸は淡路島洲本市の三熊山の山頂に妻のお増と一緒に住んでいて、月夜には上機嫌で腹太鼓を打っていたらしいんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

芝右衛門狸もいたずらをしていたの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

うん、彼も葉っぱを金に見せかけて買い物をする等の小さな悪さは働いたんだけど、山中によって迷った人を案内したりもしたから、そんなに嫌われてはいなかったみたいだね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

さっきの団三郎狸よりは良心的だったのかな。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

そうかも知れないね。そんなある日、芝右衛門は浪速(今の大阪市)の中座で大人気の芝居があると聞き、お増と共に人間に化けて大阪へ渡ったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

うん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain初めて踏む地である大阪を見物する内に2匹はすっかり陽気になり、化け比べをすることになったらしくて、まずはお増が大名行列に化け、芝右衛門の前を通り過ぎたんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

あれ?どこかで聞いたような・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

続いて芝右衛門が化かす番。お増の前を長い大名行列が続いた。お増が「うまいうまい」と声を上げて褒めたところ、たちまち行列の1人に斬り殺されっちゃったんだ。行列は芝右衛門ではなく本物だったんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

やっぱり・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain悲嘆に暮れた芝右衛門は淡路へ帰ろうとしたんだけど、せめて最後にお増も見たがっていた芝居を見ることにして、術で木の葉を金に変え芝居小屋へ通うようになったんだ。でも、芝居小屋では毎日の入場料に木の葉が混ざっていることから、タヌキが人間に化けて紛れ込んでいると疑い、番犬を見張らせることにしちゃったんだよね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plainあっ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain芝居見物も今日を最後にして淡路へ帰ろうと、芝右衛門が小屋へやって来ると、大の苦手な犬がいたんだ。芝右衛門は恐怖心を隠しつつ入口を通り抜けたけれど、その安心した隙をついて犬が襲い掛かってきた。驚いた芝右衛門は变化が解けてタヌキの姿に戻ってしまい、犬を連れた人々に追い回され、遂には頭を殴られて命を落としちゃったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

あーあ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

淡路には大阪で化け狸が殺された噂が届いて、芝右衛門の腹鼓が聞こえないことから、彼が殺されたとわかり、淡路の人々は口々に彼の死を惜しんだらしいね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain人望(?)があったんだね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain芝右衛門の死後、中座では客の入りが悪くなり「芝右衛門を殺した祟りだ」と噂が立ったので、芝右衛門を芝居小屋に祀ったところ、また客足が良くなったんだ。以来、芝右衛門は人気の神として中村雁治郎、片岡仁左衛門藤山寛美といった多くの役者たちに厚く信仰されてきたんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain後に芝右衛門の里帰りと称し、寛美や仁左衛門らの寄進により洲本市に芝右衛門の祠が建てられたんだ。現在では芝右衛門の祠は三熊山の山頂にあり、芝居好きであった芝右衛門の伝説から、今なお芸能人の参拝が多いんだ。中座に祀られていた「柴右衛門大明神」も2000年に「里帰り」し、現在は洲本八幡神社に祀られているんだよ。

 

 機嫌が治ってよかったね。f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

それじゃあ次に、徳島県に伝わるものについて話していくね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

うん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

江戸時代に、阿波国(今の徳島県)の勢見山の麓の観音寺の境内で芝居興行があったんだけど、ある夜、芸をするための犬たちが客席の方を吼えてばかりで一向に芸をしなかったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

犬ってことはもしかして・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

そうこうしているうちに、その中の1匹が客席に飛び込んで、1人の武士に襲い掛かって死に至らしめてしまったんだ。犬が武士を殺したと大事になりかけたんだけど、役人が武士の亡骸を検分したところ、懐の紙に「淡州先山芝右衛門」という実在しない武士の名が書いてあったんだ。さらに懐には柴の葉が10枚ほどあったらしいよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

ってことは・・・

 


f:id:historycultureblog:20200410012245j:plainたぶん想像通りだとは思うけど、翌朝に役人が再び検分に訪れると、武士の死体はタヌキに変わってしまっていたんだ。つまりこの狸こそが芝右衛門狸だったということだね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

そのとき阿波では化け狸の2大勢力の大戦争阿波狸合戦があったから、芝右衛門狸はどちらかの軍に力を貸すために淡路島から阿波を訪れたのだろうと噂されたんだってさ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

阿波狸合戦

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

これに関しては次の項で説明する太三郎狸も絡んでいるから、次回話すことにするよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

おっとそろそろ私シフトだわ。行かないと。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

それじゃあ次はまた今度にしようか。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

うん。

 

息抜き編 日本全国の化け狸たち 〜前編

 

 参考文献などは次回書きます。

 

歴ブロ 正月番外編

 

※今回は新年の御挨拶、つまり完全な茶番です。いつもの歴史・文化の紹介は1月10日に投稿しますのでもうしばらくお待ち下さい。

 

1.歴山くんと文野さんから

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

〈文野結化〉

たかしー!あけましておめでとー!

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

〈歴山敬史〉

相変わらず元気いいな……

 

f:id:historycultureblog:20200531013624j:plain

〈歴山博史(敬史の父)〉

ハハハ、いいことじゃないか!よし、結ちゃんにもお年玉あげよう!

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

わあ!ありがとうございます!

 

 

f:id:historycultureblog:20200531013610j:plain

〈歴山裕子(敬史の母)〉

これからも敬史のことよろしくね、結ちゃん。

 

f:id:historycultureblog:20200410012343j:plain

はい!任せてくださいおばさん!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012256j:plain

ちょ、母さん余計なこと言うなよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200531013610j:plainだって敬史出不精で母さん心配なんだもん。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain


別に出不精でもいいじゃねえかよ・・・もう俺部屋に戻る。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

あ、おばさん私も行ってきます。

 

 

f:id:historycultureblog:20200531013610j:plainお願いね。あの子一度調べ物を始めたらなかなか出てこないから・・・

 

 

 〈敬史の部屋〉

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plainなんだお前・・・ついてきたのかよ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainだって今日は、読者様に新年の挨拶をするって敬史言ってたじゃん!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

お前・・・もう少し言い方あるだろ・・・メタイぞ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plainまあ良いじゃない、今回は特別回ってことで。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

まあ確かに、そうだな。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainじゃあ、気を取り直して・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain 

 

皆様、あけましておめでとうございます!!!

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plainこの歴史・文化探求ブログも、皆様のおかげで初めてのお正月を迎えることが出来ました。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainこれもひとえにご愛読くださった皆様のおかげです。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plainこれからも面白い記事が書けるよう、精一杯精進してまいりますので、

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain新しい年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

 

2.編集者からのお礼

〈ГЕН(旧GĖN)〉

皆様、あけましておめでとうございます。歴史・文化Project代表のGĖNです。最近、実生活のほうが少し多忙になって参りまして、なかなかこちらの管理がままならなくなってきております。来年度からは実生活の方も落ち着くと思われますので、記事の投稿頻度を上げて行けたらなと思います。因みにGĖNから、キリル文字表記のГЕНに表記を改めました。

〈じじい〉

あけましておめでとうございます。メンバーのじじいです。アイコンとかのイラスト描いてます。間に合わせの醜いイラストで申し訳ないです……。そこで、1年間のイラスト練習期間を経て、実生活の方に余裕が見え次第アイコンのリニューアルを考えています!!期待しててくださいっ!!

〈和泉(いずみ)〉
皆さん新年明けましておめでとうございます
私事ですが某女優さんのファン歴が更新されました!演技も容姿も素敵な方なのですが、なんと生粋の大阪人と言う事でGAPに惚れてしまいました。私もいずれかはその方の様になりたいと密かに思っている次第です。今年は自身の舞台もありますので、自分磨きをしながら生活して行こうと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

 

3.新キャラ紹介

主に来年度から登場するキャラの紹介です。

f:id:historycultureblog:20200531013624j:plain

〈歴山博史 (れきやまひろし)〉

敬史の父。敬史と同じく歴史好き。しかし敬史とは違い基本アウトドア派。大学生の頃は登山サークルに入っており、現在も偶に山登りをしている。同時に本好きで、彼の口から語られる知識は主に本から得ている。

 

f:id:historycultureblog:20200531013610j:plain

〈歴山裕子 (れきやまゆうこ)〉 

敬史の母。根っからのアウトドア派。大学生の頃は博史と同じ登山サークルに入っていたが、今では登山はしていない。出不精の敬史を心配しており、密かに結化を敬史の部屋に呼んでいる。

 

4.これからの予定について

 

今後の予定をとりあえず粗く設定しました。

変更は下のTwitterに随時載せてまいります。

https://twitter.com/his_cul_blog


1月10日番外編 全国の化狸たち 〜狸縁起壱 ←完成
2月7日番外編 全国の化狸たち 〜狸縁起弐 ←完成
2月21日岩倉編 ←完成
3月7日歴史人物名鑑①外山正一 ←完成
4月4日円頓寺文化編 ←計画段階
4月18日大垣前編 ←計画段階
5月2日大垣後編 ←計画段階
5月16日岐阜前編 ←計画段階
5月30日岐阜中編 ←計画段階
6月13日岐阜後編 ←計画段階
6月27日善光寺編 ←計画段階
7月11日南都七大寺前編 ←計画段階
7月25日南都七大寺後編 ←計画段階
8月8日伏見稲荷神社編 ←計画段階
8月22日広島前編 ←計画段階
9月5日広島中編 ←計画段階
9月19日広島後編 ←計画段階

投稿状況の目安
計画段階→執筆中→完成間近→添削→校正中→構成完了→完成
未定=投稿できない可能性あり

 

 

 

歴ブロ 生野の故郷、江南市(江南文化編)

注釈は読まなくても大体の内容がわかります。適度に読み飛ばして行って下さい。

 

1.江南現代史

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

〈文野結化〉

ところで、なんで江南市って言うの?

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

〈歴山敬史〉

うーんと、最初は丹羽郡古知野町と同郡布袋町、葉栗郡宮田町、同草井村だったんだけど、昭和29年(1954年)に昭和の大合併で、ここ一帯が江南市となったんだ。そして、当時の愛知県知事桑原幹根が木曽川にちなんで木曽川(江)の南側の栄える町として江南市命名したんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へぇー、命名理由も中国の江南(注1)と同じなんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

そうだよ。ちなみに同じ昭和29年(1954年)には昭和24年(1949年)から作り始めていたコンクリート製の大仏が完成したんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200412185526j:plain

https://sumally.com/p/629204より

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plainこの大仏の全長は18mで、有名な奈良の大仏より3m程高いんだよ。しかも個人所有の中では最大級の大きさを誇っているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plainえっ?地味に凄い。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

だろ?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainうん。ところでその他には何があるの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

そうだなあ……大正15年(1926年)に創立した滝高等学校(注2)が愛知県の進学校になっているのと、平成6年(1994年)には江南市の市政40周年を記念してすいとぴあ江南という展望タワーと江南市勤労会館と広場が合わさった施設が竣工したんだ。ここでは毎年こどもフェスティバルなどのイベントが開催されているんだよ。ちなみに展望タワーには低価格で宿泊することもできるんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200414023408j:plain

滝学園本館https://ja.wikipedia.org/wiki/滝中学校・高等学校より撮影者Asturio Cantabrio様

 

f:id:historycultureblog:20200414023952j:plain

↑すいとぴあ江南https://suitopia.jpより

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

でも今、江南市の議会では営業・閉鎖・売却の選択も考えられていらしいね。

「どうぞ皆様存続のためにもご利用お願いします。」といったところかな。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

なるほど。機会があったら行きたいな!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

ちなみに、ハウス食品レトルトカレー国際宇宙ステーションで出されるレトルトカレーは、江南市サンハウス食品というハウス食品の直営工場で作られているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へぇー。

 

f:id:historycultureblog:20200429201748j:plain

サンハウス食品工場外観 

https://housefoods.jp/company/information/group/subsidiary/shouse.htmlより

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

 あとは、アイスクリームのピノを生産している森永の中京工場も江南市にあるんだ。濃尾平野唯一の工場なんだよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

私も夏は一日に一つは食べる〜。美味しいよね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012148j:plain

え・・・!?(太るよ・・・) 

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012418j:plain

なんか言った?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

いや、なんにも。

 

 

f:id:historycultureblog:20200429200433j:plain

↑森永中京工場 https://iko-yo.net/facilities/1707より

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

なんかお腹が空いてきたなあー。江南市で食べるところとか無い?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

そうだね・・・Facebookに江南ごはんってグループが有るんだけどそこには色々な江南市のグルメの情報が乗っているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

なんか美味しそうな画像がいっぱいだなあ・・・

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

ちなみにこのグループは現江南市議会議員の大薮豊数さん(令和2年・西暦2020年4月現在)が、江南市民が美味しいものを食べられる店を知らないということをうけて、Facebook江南市のグルメ情報を投稿するコミュニティを作ったんだ。

 

www.facebook.com

 

f:id:historycultureblog:20200429204609j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

今度江南に行くときに参加しよう!ところでさ、江南には有名人とかはいないの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

そうだね、江南市出身ではないけど、舘ひろしさんは幼少期を江南市で過ごしているね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

へぇー。 

 

  

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

ちなみに江南市は、その中央に位置する名鉄江南駅には特急が停まることも有って名古屋市のベットタウンとしても栄えているんだ。更に近くにはたくさんの高校があって、その生徒も江南駅を利用するから、名鉄犬山線の中で一番利用客数が多い駅でもあるんだよ。商店街も古知野商店街(駅西の商店街)と駅東商店街が発展して駅前は更に盛り上がったんだ。その後、駅東商店街の方は一店舗だけになっちゃったけど、古知野商店街は今も栄え続けているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200413022604j:plain

https://ja.wikipedia.org/wiki/江南市より

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

更に、人口の方も増加はないけど減少はあまりしていないよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200413021722p:plain

https://ja.wikipedia.org/wiki/江南市より

 

f:id:historycultureblog:20200410012324j:plain

へぇー。それじゃあ、ベットタウンとしての江南市は成功しているのかな?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

僕は政治家や現地の人ではないからあまり難しいことはわからないけど、素人目線からだとそう見えるね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

なんか、吉乃姫から壮大なところまで話が発展しちゃったね。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

今回はここまでにしようか。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

うん、そうだね!

 

 

注釈

1中国の江南も、長”江”の”南”という意味でそう名付けられた。

滝高等学校江南市の実業家瀧家の瀧信四郎が「地域の役に立つことがしたい」という考えのもと立ち上げた実業高校。その後普通科が創設され、農業科・商業科が相次いで募集停止し、現在の状態に至った。

 

江南文化編終わり

 

参考文献

江南市 - Wikipedia

江南市公式ホームページ

布袋まちあるきマップ|江南市公式ホームページ

生駒吉乃 - Wikipedia

豊臣秀吉 - Wikipedia

生駒氏 - Wikipedia

武功夜話 - Wikipedia

太閤記 - Wikipedia

太閤素生記 - Wikipedia

五奉行 - Wikipedia

五大老 - Wikipedia

浅野長政 - Wikipedia

布袋の大仏 - Wikipedia

滝中学校・高等学校 - Wikipedia

すいとぴあ江南 - Wikipedia

すいとぴあ江南 Suitopia Konan【公式ホームページ】

サンハウス食品株式会社 | 会社案内 | ハウス食品

 

協力

江南市の方々

江南市議会議員 大薮豊数さん

生駒家現当主様

歴ブロ 生駒の故郷、江南市(江南歴史編)

注釈は読まなくても大体の内容がわかります。適度に読み飛ばして行って下さい。

1.江南市の地理

 

f:id:historycultureblog:20200410012343j:plain

〈文野結化〉
たかしー!ゆいかさんが遊びに来たぞー(笑)

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

〈歴山敬史〉
お前そろそろ人の家に無断で上がり込むのどうにかしろよ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plainだって敬史のお母さんから許可もらってるもん♪

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain余計な事を……

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plainねぇねぇ、それより何見てんの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plainああ、これか?これは愛知県の江南市のサイトだよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain江南市

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

愛知県北西部にある市で、一宮市、そして木曽川を挟んで岐阜県各務原市と隣接しているんだ。また、国宝犬山城で有名な犬山市とは丹羽郡扶桑町をはさんで地続きで、昭和初期までは丹羽郡というくくりで同じ郡だったよ。

 

江南市の地図 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

なんでまたそんな所を調べてるの?

 

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

織田信長の側室の吉乃姫(注1)について調べていてね、それで知ったんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200412014454j:plain

↑吉乃の親である、生駒家宗夫妻の墓(歴ブロ取材班撮影)

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

なんか面白そう!教えてよ、その話。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012215j:plain

(また火をつけちまった……やっぱり癖なのかな……)

 

 

注釈

1通常の資料には生駒家宗女としか出てこない。吉乃や類の名は後世、吉田龍雲によって作られた造語である。生駒家・尾張藩江戸幕府の資料にもその名は登場しない。このブログでは、便宜上吉乃と表記する。

 

2.織豊政権と江南地域のかかわり

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ところで、さっきの吉乃姫って誰なの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

織田信長の側室で、嫡男の信忠と次男の信雄、そして長女の五徳を産んだ人だよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

へー、側室が嫡男を産んだんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

うん、信長と正室帰蝶の間には子供はいなかったとされているんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

へぇー、なんか複雑だね。ところで、江南市と吉乃姫にはどんな関係があるの?

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

吉乃姫は江南市の出である生駒家の生駒家宗の娘なんだよ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

あ、だから江南市を調べていたのね!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

そう。そしたらなかなか面白いものがたくさん出てきたんだ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain例えばどんな?

 

 

f:id:historycultureblog:20200411010503j:plain

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

 これは、龍神社前にある、吉乃御殿跡の看板なんだ。ここで信長と吉乃が逢瀬を重ねたと書いてあるね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012333j:plain

 あれ!?よく見たら、吉乃が秀吉と信長を引き合わせたって書いてあるじゃん!

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

いい所に気がついたね。『前野家文書』の中の軍記物『武功夜話』(注1)には信長の側室・吉乃が信長に秀吉を紹介したと書かれているんだけど、信長に直訴して仕官した(『太閤記』(注2))、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』(注3))など様々な説があるから真相は不明といったところかな。

 

f:id:historycultureblog:20200410012139j:plain

さらにいうと、この吉乃御殿も武功夜話の作者吉田龍雲が作った話で、ここは生駒家の居城小折城内の池だと言われているよ。実際、生駒家・尾張藩江戸幕府の「久菴桂昌尼(吉乃のこと)は『小牧に住ス』」という記録からも分かる通り、信長は現在の小牧山付近に吉乃の御殿を作ったのではないかと考えられているんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012407j:plain

なーんだ、がっかり……

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

でも、秀吉の出身は農民だし、軍記物では実際と違う事が書いてあるなんてことはしょっちゅうあることだから、当たり前といえば当たり前なんだけどね。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

たしかにそうね!ところで、吉乃姫の実家の生駒家って奈良県生駒市となにか関係あるの?

 

f:id:historycultureblog:20200410012207j:plain

うん。生駒氏はもともと大和国(今の奈良県)の生駒というところに流れ込んだ藤原氏の一派が名乗った名字なんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012158j:plain

その後、応仁の乱の戦火を逃れるため、尾張国丹羽郡小折つまり、現在の江南市に避難したんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200412014044j:plain

↑生駒屋敷(小折城)跡の立て看板。幼稚園の近く。

 

f:id:historycultureblog:20200410012427j:plain

なるほど……それじゃあ生駒氏以外にも江南市に居を構えた家はあったのかな。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012245j:plain

うーん、あまりいないけど、一応近辺の土地だと、一宮市には浅野長政あま市には蜂須賀家政岐阜県各務原市には前野長康(注4)といった後の織田・豊臣家臣なんかがいるね。浅野長政は豊臣政権家での五奉行(注5)で主に司法を担当していたみたいだよ。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の奥さんのねね(ねい・おねという説もあり)が浅野家に養子に来ていたこともあって、浅野長政織田信長の命令で藤吉郎の与力につくことになったんだ。

 

f:id:historycultureblog:20200410012352j:plain

なるほど、真偽の程は定かでないにしろ、秀吉にとっても江南市周辺は運命の土地だったんだ!

  

f:id:historycultureblog:20200410012314j:plain

ちょっと長居し過ぎたね。そろそろ帰らなきゃ。

 

 

f:id:historycultureblog:20200410012134j:plain

そうだね、文化編は次回にしよう! 

 

 

 

注釈

1前野家文書と呼ばれる古文書集の一つで、江南市の庄屋吉田家(前野家の子孫と言われている)に伝わっている、前野氏の歴史をまとめた文書である。前野家の縁者で豊臣秀吉に仕えた前野長康や、前野家に縁の深かった蜂須賀家・生駒家、若い頃生駒屋敷に出入りしていた織田信長豊臣秀吉などの重要な資料として桶狭間合戦・墨俣一夜城の築城を伝える。

2広義には豊臣秀吉の伝記だが、小瀬甫庵の書いた太閤記が有名。

3江戸時代に幕府の旗本(徳川将軍家に直接仕える直参の家臣のうち、お目見えができるものを言う)土屋知貞が書いた聞書。他の太閤記とは異なり豊臣秀吉の幼少期を描いているため貴重な資料となっている。

4様々なサイトにはすべて江南市の出であるとする資料もあるが、実際はこの通りである。

五奉行という名称は実は当時のものでなく、単に奉行・年寄と呼ばれており、浅野長政(主に司法担当)を筆頭に石田三成(主に行政担当)、前田玄以(主に宗教担当)、増田長盛(主に土木担当)、長束正家(主に財政担当)が担当していた。また、同じく豊臣政権の中枢を担っていた五大老は、もともと六人(徳川家康前田利家上杉景勝宇喜多秀家毛利輝元小早川隆景)だったが、小早川隆景の死により五人となった。また、こちらも当時五大老という呼び名はなく、単に力のある5つの有力大名という認識だった。ちなみに、徳川家康前田利家小早川隆景以外はすべて領内に金山・銀山を持っている(上杉景勝佐渡金山、宇喜多秀家・但馬生野銀山毛利輝元・石見大森銀山)。

 

参考文献・協力は次回載せます。

 

江南歴史編終